◆清津市の帰国者に餓死多発

前出の李昌成さん、金綾子さんの家族は咸鏡北道清津(チョンジン)市の羅南(ラナム)区域に暮らしていた。清津は、平壌、元山と並んで帰国者が大勢住む地域である。金綾子さんは61年に帰国してからずっと清津の近くに住んでいたため、40年来の帰国者の知人が大勢いた。

特に40~50年生まれの世代は、高度成長期の入り口にあった日本で青春の真っただ中を送ったこと、朝鮮語習得の苦労、軍隊や警察に配置されないなどの帰国者差別を共通して体験し、仲間意識が強かったようだ。清津の帰国者が90年代末の飢饉の中で次々と死んでいったことを、綾子さんは次のように証言した。

「清津の帰国者は本当にたくさん死にましたよ。帰国者仲間からブンちゃんと呼ばれていた兄さんがいてね、喧嘩は強いし、男前だし、女の子の憧れだった。日本から仕送りもあってはぶりも良かった。それが、いつしか止まり、痩せてしょぼくれたオヤジになっていったんだけど、帰国者同士で集まると、『俺たちは腐っても帰国者だ。自尊心失わず生きて行こう』なんて言うてたよ。

『苦難の行軍』になって飢え死にがいっぱい出始めた時、ブンちゃんの家に寄ったら、何にも食べ物がなくて、痩せに痩せててね。パンを食べさせたら喜んで『ルンジャ、俺が死んだら、日本の見える海沿いに埋めてくれよな』と言うてました。

その数日後に死んだんで仲間で海の見える山に埋めましたよ。

東京から来た「ジャック」と呼ばれてた帰国者はお腹がペッタンコになって最後は『ぜんざいが食べたい』言うて死んだ。「オバケ」というあだ名の姉さんは、大阪で総連の仕事をしていた。『豚肉を少し食べられたら恨はないよ』と言うので、魚の天ぷら持って行ってあげたけど二日後に死んだ」。4回へ

※在日総合雑誌「抗路」第二号に書いた拙稿「北朝鮮に帰った人々の匿されし生と死」に加筆修正したものです。

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