朝中国境地図

◆同情心で済まなくなってきた

取材で訪れた国境沿いの村で、渡河してきたばかりの越境者に、私も何十人と会っている。

和龍県芦果村で農業を営む金在権さん宅を訪れたのは98年4月。豆満江の氷は溶けていたが北朝鮮飢民の流入は続いていた。

「もう、難民を止めることは誰にもできませんよ。民が国を捨てるのは、北朝鮮の歴史の止めようのない流れではないですか」

苦々しい笑いを浮かべ、お手上げだという表情で金さんはそう言った。
私が金さんの家を訪ねた日に二人、翌日にも二人の北朝鮮人が金さんに助けを求めてやってきた。三日目には近所の人が「うちには寝るスペースがもうない」と言って、また別の二人を金きんの家に連れてきた。この時、私は金さん一家四人と六人の北朝鮮越境者と一週間ほど「同居」することになった。布団も足りず雑魚寝であった。

金きんの家は、100メートル向かいを北朝鮮との国境の川・豆満江が流れる。その川を越えて、金さんが「朝鮮のお客さん」と呼ぶ人々が家の扉をノックしはじめたのは95年末だ。急増した97年には人口が約1000人の芦果村へ、「平均すれば1日2~3人は来ていたのではないか」と言う。

朝鮮族の村人は、それでも飢えた同胞に同情して食事を与え、匿(かくま)い、内陸に向かう人にはバス賃をあげていた。ところが、事態は同情心で済むレベルではなくなった。前年の同時期に比べ、98年は10倍以上の越境者が押し寄せてきている、というのだ。

「この半年で、北朝鮮人の越境は凄まじい勢いで増えた。芦果村だけで1日に50人は来ている。もう村人が助けられる限界を超えた。困るのは子供たちなんです。まだ4歳ぐらいの小さい子供もいる。自力で川を越えてくるが、飯を食わせて送り帰そうとすると『絶対に帰らない』と言うのが多い。放っておくと、空き家に入り込んで寝ています。親が行方不明だったり、死んでしまったりしたケースがほとんどです。かわいそうだけれど、これ以上私たちにはどうしようもありません」

と金さんは言った。彼も引っ越しを真剣に考えはじめていた。

状況は近辺の村でも同じだった。
芦果村の少し下流の龍淵村のある政府職員も、

「一日に50人ぐらいは来ているんじゃないか。子供と女性が多い」

と言った。私がこの家を訪れた時、部屋の隅に前日の晩に川を越えてきた
女性が一人いた。翌99年、この政府職員は龍淵村の家を放棄し、一山越えた隣村に引っ越した。(続きを読む)

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