ロルパを支配した、かつての王の歴史を探る 

【ガジュルコットの”コット”、つまり、かつての王宮につながる街道。道脇の大きな木はセン王が植えたものと伝えられている】

【ガジュルコットの”コット”、つまり、かつての王宮につながる街道。道脇の大きな木はセン王が植えたものと伝えられている】

ダハバンの駐屯地でマオイストたちと寝食を共にして数日を過ごしたあと、私はいったんダン郡のゴラヒに戻った。そのあと、別のルートをとって、ロルパ中部にあるガジュルコット村に向かった。ネパール最大のヒンドゥー教の祭りであるダサイン祭の最中であるため、ロルパ行きのバスは日に1本しかなく、ゴラヒから乗ったバスは超満員だった。

私は前もってチケットを買っておいたために、席を確保することができたが、席のない乗客が通路にあふれ、私の膝の上には乳飲み子を抱えた母親の小さな子供がずっと眠り込んでいた。

約10時間のバスの旅のあと、サトドバートに着いたのは午後7時過ぎだった。この日はガジュルコット村に行くことはあきらめ、サトドバートにある宿に泊まった。

"宿"といっても、食事代の50ルピー(約100円)を払うだけで、部屋代はとられない村の宿である。山の峰にあるサトドバートには、国軍であるネパール軍の部隊が駐屯し、かつて非常事態宣言が発令されていたころには、ここのチェックポストで厳しいチェックを受けたものだ。しかし、停戦後1年半たった今は、バザールに兵士や警官の姿も見えない。

翌朝、私は一人で出発した。いつものように、半分は寝袋が詰まった中型のリュックを背負い、朝晩冷えたときに羽織る厚手のジャケットと空腹のときに食べるネパール製ビスケットが入ったバッグを肩から提げて、歩き出す。ガジュルコット村に行くのは初めてだったが、ずっと村の中の道を通るため、道に迷うと村人に聞く。

たいてい、親切に答えてくれる。何人かは、しばらく一緒に歩いて道を教えてくれた。こういうとき、ネパールの村人は本当に親切だ。
クメール村の集落を通り過ぎ、いったん、川原まで降りたあと、20分ほど登ると、目の前に大きな菩提樹が現れた。ガジュルコット村の中心集落だった。近くにいた村人に、訪ねるべき高校教師の家の場所を聞くと、たまたまその家の使用人である少年がおり、彼と一緒に歩いていった。

私が来ることはすでに伝えておいたのだが、ちゃんと家族に伝わっており、暖かく迎えられた。前回、ロルパの郡庁所在地リバンを訪ねたときに、この教師に会って、ガジュルコットの歴史に関する話を聞いていたのだが、村でセン王の子孫に会って直接彼らの家族から話しを聞くことが、今回の訪問の主な目的だった。

ネパールには地名に"コット"が付く村が各地にある。"コット"とは、かつて"ラージャ(王)"がいた所である。ガジュルコットにも、18世紀半ばに現シャハ王家の軍隊が領土拡大のために攻撃してくるまで、セン家の王が君臨していた。

村に着いた日の午後、私は高校教師の案内で、かつてセン王の"ダルバール(王宮)"があった"コット"に連れて行ってもらった。"コット"はダルバールでもあり、敵の攻撃から王を守る"砦"でもある。そのため、たいていのコットは攻撃をしかけにくい山の峰や頂にある。ここガジュルコットのコットも、三方を険しい崖に囲まれた山の峰にあった。かつてのダルバールの跡は跡形もなく、かつて砦があったと思われるところには、案内してくれた高校教師の父親が半世紀前に建てたロルパで初めての小学校が建っていた。
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