ヨンサムは2000年頃に、飢える家族を食べさせるため親戚を頼って中国に越境して来ていた。インタビューさせてもらったことがきっかけで親しくなり、私が吉林省延吉市内に借りていたアパートで同居したこともあった。人懐っこく、年長の私のことを「兄貴」と呼んでくれた。

「中学を出てすぐ軍隊に入って10年もいたし、除隊すると飢饉が広がっていて勉強するどころではなかったんです」。
こう言うヨンサムは、私に中古のコンピューターと韓国の歴史や英語の本を求めた。インターネットで、韓国の北朝鮮関連ニュースを、食事も忘れて食い入るように見ていた。

自分の肖像がニューズウィーク誌の表紙になって、ヨンサム大喜びだった。

自分の肖像がニューズウィーク誌の表紙になって、ヨンサムは大喜びだった。

彼は3年ほど中国の親戚のもとで働いて金を貯め、北朝鮮の家族のもとに戻ることになった。国境の川・豆満江べりまで見送った私に、「半年ほどしたらまた来ますよ」と言って、明け方に、いろいろ詰め込んだ大きな背嚢を背負って川に入っていった。それが今生の別れとなった。

故郷の街までたどりついた後、ヨンサムは中国で過ごした「空白の3年」が秘密警察に問題視されて監視対象となり、再び中国に越境して来ることは、叶わなかった。

ヨンサムの一家は実に不遇であった。90年代後半の「苦難の行軍」と呼ばれる社会混乱と飢餓の中でまず母が亡くなった。父が、中国にいる弟の支援を頼って密かに往来を続けたが、01年に真冬の豆満江を渡ったところで倒れてその場で亡くなった。北朝鮮に残った兄も、ヨンサムが亡くなる直前に死亡していた。唯一生き残ったのは、数年前に韓国に脱出した姉だけである。

日本に住む者の感覚では、北朝鮮では実にあっけなく人が死んでしまう。ヨンサム一家のように家族に死が続くのは、今も北朝鮮では珍しいことではない。

ヨンサムにとって私は、初めて会う「ナマ日本人」だった。教科書やドラマや記録映画の中で「不倶戴天の敵」として描かれる日本人の「実物」に興味は尽きなかったようで、彼は私に日本のことを様々尋ねた。
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