2001年4月、マオイストの襲撃により、廃墟となった警察署。(ルクムコット)

この事件では、当初から王室は事件の詳細を隠蔽しようと試みた。にもかかわらず、「ディペンドラ皇太子の犯行」という点に関しては、事件直後からあっという間に、外に情報が流れた。この情報だけを意図的に漏らしたとさえ思えるほどだ。まるで伝言ゲームのように、深夜の電話を通じて、同じ内容の話が人から人へと広がったのである。

晩餐会の日、たまたま首都の外にいて惨事を逃れた故ビレンドラ国王の弟ギャネンドラ王子は、新国王になるとすぐに最高裁判事長と国会議長からなる調査委員会を発足させた。

調査委員会は晩餐会に出席していた目撃者や、王宮の警備関係者、死傷者が運ばれた軍病院の医療関係者などから証言をとり、「ディペンドラ皇太子が酔ったうえで単独で犯行におよんだ」とする結論を出した。

報告書のなかには、自殺したとされる皇太子は右利きであるにもかかわらず、弾が左こめかみから入っていること、軍病院の医師が「皇太子の体からアルコールは検出されなかった」と証言していることなど、つじつまの合わないことがいくつかあるものの、国民はこの調査結果を腹の奥底に飲み込んで蓋をした。

王宮内で起こったことは永久に闇のなかに隠されるという、ネパールの歴史的前例から諦めの心境もあってか、国内のメディアも含めて、これ以上の真相究明を求めることを止めたのである。 事件そのものは一応、一件落着となったものの、ネパールのその後の状況を見ると、この事件が大きな転換点となって、歴史の潮流が変わったことがわかる。その背後にある最大の要因が、反政府武装勢力である「マオイスト」こと、ネパール共産党毛沢東主義派の台頭である。

マオイストは、政敵の身内で起こった"王族虐殺事件"を手際よく利用した。事件の5日後、まだ人々の衝撃覚めやらぬ状況のなかで、党内ナンバー2のイデオローグ、バブ・ラム・バッタライがネパールで最大発行部数を誇る日刊紙「カンティプル」に長い投稿文を出したのだ。

そのなかでバッタライは、「民主的な考えをもつビレンドラ国王を消滅させる目的で、ギャネンドラ新国王が拡大主義者インドとアメリカ政府と手を組んで事件を起こした」とする"陰謀説"を披露した。さらに、「この事件によって、ネパールの王制は実質的に終焉した」と主張したのである。

バッタライの"陰謀説"は、その真偽のほどはともかく、王子時代から人気のなかった新国王への反感票もあって、一般国民のあいだで"隠れた喝采"を浴びた。そして、王族虐殺事件により王制が揺らいだ機をとらえ、まるで壊れた土台を揺るがすかのように、都市部で反政府・反国王のキャンペーンを開始するとともに、全国で武装活動を活発化させるのである。

※今後の連載予定
第2回;「マオイスト優勢の風向きを変えた9.11テロ事件」 1月9日掲載予定
第3回;「国王の軍とマオイストの軍との戦い」 1月16日掲載予定
第4回;「絶対権力を手にした国王」
第5回;「"停戦劇"‐舞台の表と裏」
第6回;「マオイストの"王国"‐現場ルポ」
第7回;「国王、マオイスト、そして米英インドの干渉」
第8回;「王制か共和制か」 マオイストは1996年2月に、「農村を拠点に都市部を包囲する」という毛沢東の"人民戦争"の方針にしたがった武装闘争を開始した。土地改革やカースト制・民族による差別廃止、世俗国家の確立(ネパールは憲法でヒンドゥー国家であるとされている)など、さまざまな要求を掲げているが、彼らの最大要求は「国王と王族の特権廃止」、つまり「共和制の確立」にある。彼らにとって最大の政敵は国王ということになる。