国家非常事態宣言
ゴラヒ襲撃のあと、時を開けずに、11月25日夜マオイストはエベレストを抱える東ネパールのソルクンブー郡の郡庁所在地サッレリを襲撃、郡行政長官を含む33人を殺害した。政府は翌日、国家非常事態宣言を発令。王室ネパール軍が初めて、マオイスト制圧のために全面展開されることになった。

このあと、 2002年末にかけて、マオイストは3つの郡庁所在地を含む各地で襲撃を決行。2002年2月のアチャム郡郡庁所在地マンガルセンとサンフェバガル空港への同時襲撃では、軍兵舎の兵士をほぼ全滅させ、警官を含めて約150人の犠牲者を出した。

国家非常事態宣言が発令されてから、2度目の停戦が成立するまでの14ヶ月間は、ネパールの歴史のなかで最も多くの人の血が流れた期間と言っていい。人民戦争が始まってから国家非常事態宣言が発令されるまでの5年半余りのあいだに、政府側とマオイスト側により殺害された人の数の合計は約1700だったが、この14カ月間の犠牲者は5146人に上る(人権関連NGOのINSECの統計による)。

このうち約3分の1がマオイストにより殺害され、約3分の2が政府側の治安部隊により殺害されている。
マオイストは地理的、軍事的に比較的襲撃しやすいターゲットを選び、人海戦術で攻撃をしかけるという戦略をとった。そのため、ほとんどの襲撃に成功した。そして、2002年末、マオイストは自らの戦力が「政府側と均衡の状態に達した」と結論づけ、毛沢東の人民戦争の戦略にのっとって、再び政府との和平交渉に入る計画を立てるのである。〈続く〉

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