060421_50.jpg「右」の人たちとの討論やら靖国神社への考察などを書き記してみました。
【「靖国への手紙」を読む野中章弘】
この会はもともと憲法改正国民投票法案や改憲への動きに異議を唱えよう、という仲間たちで作ったものである。呼びかけ人は吉田司、吉岡忍、元木昌彦、森達也などの面々である。

靖国では「ニイタカヤマノボルナ!靖国に<死者>の声を聞きにゆく」という企画を考えていた。靖国の「英霊」へ手紙を書き、彼らの声に耳を傾けようという試みである。

「国」に命を捧げた戦死者たちはいったいどのような日本になることを望んでいたのか。そのことを「手紙」というスタイルで問いかけ、それを靖国に届けようというものである。
手紙の相手としては、それぞれ東条英機、松井石根などの戦争指導者をはじめ、「特攻の父」と呼ばれる大西瀧治郎、硫黄島で戦死した金メダリスト西竹一などの名前が挙がっていた。

ぼく自身は日中戦争後、従軍記者として初めて靖国に合祀された東京朝日新聞の岡部孫四郎を選んだ。同じジャーリストとして、聞いてみたいことがたくさんあったからである。以下、ぼくの手紙である。
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東京朝日新聞特派員 岡部孫四郎様
あなたが従軍取材中、頭部に銃弾を受けて亡くなられたのは、一九三七年(昭和十二年)七月二八日のことですね。東京朝日新聞の特派員として、北京郊外南苑の激戦を取材していたときの出来事でした。朝日新聞社史によれば、あなたは「日中戦争初の従軍記者の犠牲者であるばかりでなく、朝日新聞創刊以来はじめて銃弾で倒れた「ペンの戦士」で、二九歳であった」と記されています。

京城(ソウル)支局員のあなたは、盧溝橋事件が勃発したため、急遽、北京へ派遣されたのでした。当初、「北支事変」と呼ばれた日本軍と中国軍の衝突は、やがて中国全土を戦場とする日中全面戦争へと拡大することになります。

当時、朝日新聞に掲載されたあなたの記事を読めば、あなたが血気盛んな若い記者であり、日本が行った戦争の大義を純粋に信じていたことがよくわかります。
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