中国の戦場であなたが見たものは、お国のために勇敢に戦い、命を捧げる日本兵の姿であり、日本軍に刃向かう中国軍民はすべて「敵」だったのですね。日本軍の侵略によって苦しむ中国の人びとの姿はあなたの目には映っていなかったのでしょうか。

いま私が「あの戦争は侵略戦争だった」と言えば、あなたはどう思われますか。「大東亜の解放を信じて散華した日本の将兵を愚弄するな!」と憤激されるかもしれませんね。
私は戦後三十年ほどたってから、日本軍が住民虐殺を行った平頂山(中国東北部)事件の現場を訪ね、生存者の聞き取り調査をしたことがあります。約三千人の住民が皆殺しにされたということです。いまでも犠牲者の骨が散らばる現場は保存されています。赤ん坊や子どもの骨もあり、無残な光景として私の目に焼きついています。

この平頂山事件が起きたのは、一九三二年の夏のことです。あなたはこのような事件を知っておられたのでしょうか。あなたはもう記者として活躍されていたはずですから、そのような情報を耳にしていた可能性もあると思われます。

また私は幾度か南京を訪れ、一九三七年十二月に起きた南京大虐殺の証言を記録したこともあります。犠牲者の数は確定できませんけれども、ここで多くの住民が虐殺されたことはまぎれもない事実です。この事件はあなたの亡くなられた後のことですが、中国の人びとにとって日本軍は侵略者以外の何者でもなかったことを示しています。

戦後、朝日新聞の社長となった美土路昌一氏は、「この非常の時に、全新聞記者が平時に於て大声叱呼自由の烽火を、最も大切な時に自ら放棄して恥じず、益々彼等を誤らしめたその無気力、生きんが為めの売節の罪を見逃してはならぬ」と述べ、「今徒らに軍の横暴のみを責めている自分に対し、深く反省し自責の念に堪えないのである。言論死して国遂に亡ぶ、死を賭しても堅持すべきは言論の自由である」と語っています。

あなたはいまこの言葉をどのようにお聞きになりますでしょうか。
先ごろ、私は三年前に他界した母の墓に参るため、帰郷しました。母の墓石の隣には日中戦争に参加した祖父・野中昂(たかし)が眠っております。昂は盧溝橋事件の前後、中国で兵士として戦い、最後は陸軍病院で戦病死しました。河北省の戦闘で負傷したと墓碑の裏に記されていました。

病院に祖父を見舞った伯父の話によれば、祖父はぼろぼろの格好でベッドに横たわっており、「ほんまにえらい目におうたんやぁ」とだけ言い残して死んだそうです。無念の死です。享年二五歳。彼は靖国神社に祀られていますが、他にもやはり中国などで戦死した父方の二人の伯父が合祀されています。

私はいまあなたと同じような職業についています。事実を記録し、それを伝えるという仕事です。残念ながら、過去の戦争報道を振り返れば、多くの記者たちは戦争の実相に目をつぶり、人びとを侵略戦争へ駆り立てるような記事を書いてきたのです。その責任は容易に免罪されるものではないでしょう。

その反省のうえに立ち、私たちは戦争へ傾斜するすべての動きに反対しなければならないと思っています。岡部さん、私たちがふたたび過ちを繰り返すことのないよう、見守ってください。そのことを願いながら、筆を擱かせていただきます。

二〇〇五年十二月八日     野中章弘
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