あなたは従軍記者としていつも戦闘の最前線に出ていたのでしょうね。亡くなる2日前に打電された「頭上で爆弾炸裂!我勇士鮮血淋漓」という記事では、中国軍の機関銃の猛射を受け、「耳が聞えなくなった、目も真暗だ、ヒヤリと顔に水がかかつたと直感した 「やられたか!なあに支那兵にやられて堪るか」と思わず腰の拳銃に手が触れた 顔をなでて見た・・・手を見るとベットリと血糊がついている」とすぐそばで撃たれた兵士の鮮血を浴びた様子を描いています。

また同じ記事の後段には、「「大川、米谷確かりしろ傷は浅いぞ」抱きあげた戦友の手が震えている・・・至高至尊人間感激の一瞬時だった「しっかりせよと抱き起こし・・・」と軍歌にある今その言葉を記者は聞いたのだ・・・記者は流れ出る涙を拳で拭つて黙祷を捧げた」と激情のこもった筆致で戦場の死を書いています。

絶筆となったのは死の直前にしたためられた戦記です。「彼我の砲声は殷々として「けふは事変始つて以来の大激戦になるぞ」と胸がわくわくする・・・尚我軍の死傷者はその数を増しつつあり、ああ尊き名誉の戦死者既に四十名に達している」という激戦の最中、あなたは若い命を散らしたのです。
日中戦争からアジア太平洋戦争突入までの戦没記者は、朝日新聞だけでも十六名に及んでいます。あなたはその名簿のいちばん最初に名前を刻まれたのですね。

あなたが亡くなってから一年余りたったころ、「故岡部氏も合祀」という見出しの記事が出ました。靖国神社臨時大祭に合祀される旨、官報で発表されたというのです。
あなたが勤めていた新聞社は、「通信職務遂行のため戦死した新聞記者が同神社に合祀されることは全く今回が始めてで遺族並に本社の光栄はこの上もない次第である」(一九三八年十月七日付け東京朝日新聞)と書いています。

この知らせをあなたのご家族も「光栄」なものとして思われたのでしょうか。
このころ、日本は破滅的な結末を迎える戦争へひたひたと走っており、この日の紙面も政治から生活面まで戦時色一色となっていました。満州事変後は朝日新聞だけでなく、すべての新聞が大政翼賛的な報道へと舵を切っていったのです。ごく少数の者たちを除き、ほとんどの記者たちは「皇軍の大義」を疑うことはなかったようです。
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