すると八月二一日から二五日までの五日の間に「18号管理所」は平安南道价川市龍院リョンウォン洞スンチャン里オモク村に移動させられることになった。そこは四方が高い山に囲まれおり、天然の要塞のようなところだった。

鳳昌と同じく、そこもやはり炭鉱地帯だったが、鳳昌「第18号管理所」からは「移住民」たち、すなわち非解除民だけが連れて行かれた。こうして、鳳昌は社会に戻された。その後、鳳昌里は北倉郡の人民委員会が行政管理をするようになった。

奴隷
私が入所した当時、「18号管理所」に三〇年以上も住んでいるという人が大勢いた。
この人たちは、世の中の情報から隔絶されており、人によっては生まれた時から「管理所」にいるため、外の世界がどうなっているのか、外で何が起こっているのか、まったく何にも知らなかった。

三〇年以上も「管理所」の中にいる人は、まさに「管理所」の中がすべてという価値観を持っており、どんなにひどいことを言われても、侮辱されても、人生とはそのようなものだと思っているようだった。
「自分は黙って仕事をするだけだ。病気になろうがどうなろうが仕事に出るだけだ」
こんな考えが当たり前なのだ。

私が大学に通っていたせいかもしれないが、私の目には三〇年以上も「管理所」暮しをしている人々の姿が、あまりにも無気力に見えた。
そういう私も、テレビで言っていることや国家の宣伝を鵜呑みにしてきたため、世界中の国が朝鮮のような仕組みで回っているのだろうと思っていた。いや、「わが国が一番すばらしい」と思い込んでいたのだ。
そのため、「管理所」に来た当初は、「よし、この苦境さえ乗り切るんだ。そうすれば社会に出て、また堂々と暮らすことができる」という程度にしか「管理所」暮らしを考えられなかったのだった。

しかし、そこでの生活が長くなるにつれ、私の考えは少しずつ変わっていった。世界でわが国ほど人権を踏みにじる国はないのではないか、というような思いがだんだん強くなっていったのだ。

朝鮮労働党では、思想教育を行うとき、しばしば黒人に対する白人の蔑視と差別について強調するが、それより管理所内にいる私たちの扱われ方のほうが、ずっとひどい、世界中でここが人権状況の最も悪い所だ、と思うようになった。
私は炭鉱に配置されたのだが、同じ坑道にミョンヒ、ソンホという同年輩の友達ができた。彼らに尋ねたことがある。
「お前、いつここへ来たんだ?」
「七三年」
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