「俺は七五年」
「ということは二〇年近くになるのか……。じゃあ、なんでここへ?」
「さあ」
「何の罪なのかさっぱりわからん」
他の人にも聞いてみた。

「君はもとはどこに住んでいたの?」
「うちの親は確か……、黄海南道拝川(ペチョン)という所に住んでいたというよ」
一九四五年、米国とソ連がわが国に三八度線を引いた時、黄海南道拝川郡は南側に属していた。
朝鮮戦争が終わって軍事分界線が新たに引かれると北側の土地になった。ところが、そこの人々は、朝鮮戦争の前に南側の「指令」を受けたというのである。

つまり解放後の五年間、南朝鮮統治の下にあったというだけの理由で、政治的に問題があるとして全員強制移住させられたのである。そして、代わりに咸鏡道の人々をそこに移住させたのだという。
このように多くの罪のない人々が「政治犯」という烙印を押され、各「管理所」に強制移住させられてきた。

「18号管理所」にも拝川出身者が非常に多かった。得将にいた人々まで合わせると、膨大な数になる。一〇万人になるのか二〇万人になるのか分からないが、とにかくとんでもなく大勢の人々が、みな強制移住させられたのだ。
この人たちの中には、すでに「解除」された人もいた。しかし、行くあてのない彼/彼女らは、「解除」されても「管理所」の中に住み続ける。「管理所」の中でただ畑を耕していく他に生きていく方法がないのだ。

こうして何の罪もないこの人たちは、奴隷のような「管理所」生活を延々とさせられてきたのである。
(つづく)

注1 「管理所」では強制収容されてきた人々を「移住民」と分類・呼称する。「囚人」や「罪人」とは呼ばない。
注2 金昌奉(一九一九年―?) 金日成と抗日ゲリラ活動をともにした軍人・政治家。民族保衛相だった一九六九年に対南政策の違いから金日成と衝突、粛清され「管理所」送りになったとされる。
注3 「管理所」の収容者である「移住民」から身分上、一般社会の住民に復帰することを「解除」と言う。
ただし、「解除」が「管理所」からの出所を必ずしも意味しないのは、本文にあるとおりだ。

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