第二の要因として、八〇年代の朝鮮では、国防施設の建設と権力者らのための施設建設を最優先にしたことが挙げられる。
朝鮮における国防建設は、それ以前もそうであるが、八〇年代から現在にいたるまで、「祖国統一」の名の下の、莫大な資金の浪費以外の何ものでもなかった。

また、この時期に、世界の社会主義陣営が改革開放路線に移ったことが、朝鮮を経済的に自立するための「社会主義大建設」(注1)と呼ばれる大型投資に向かわせた。
さらに悪いことに、「首領世襲」(金正日による後継)というお荷物まで背負い込んだ。当時、後継者の業績を作るための「大記念碑建設」がいたる所で行われた。

この厳しい政局の下で、人民の住宅問題など、誰も関心を払うどころではなかったのである。
それどころか、平壌を含めた主要都市では、戦後に急ごしらえで建てた住宅を次々壊して、政治権力の威風を高めるための都市建設を強行したため、住宅を強制撤去させられる人が大量に生みだされた。これによる「同居」(注2)と「後株」(注3)の苦痛は現在も解消できていない。

第三に、一九八九年、平壌では「'8 8ソウルオリンピック」と張り合って「第一三次世界青年学生祭典」の開催を無理して行った。この行事で訪れた外国人一五〇〇人のために、いかなる建設が行われたかということは世界の知るところである。
今も平壌市の万景台(マンギョンデ)区域の「体育村」には、その巨大浪費の歴史の証拠物がずらりと残されている。
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