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子供のころのアナンタ〈後ろ左〉(写真提供:オンサリ・ガルティ・マガル)

子供のころのアナンタ〈後ろ左〉(写真提供:オンサリ・ガルティ・マガル)

■ 第6回 村のクラブからコミュニストが生まれる(1)
人民戦争が始まってから、マオイストの武装勢力のなかで重要な役割を果たすことになる"アナンタ"ことバルサ・マン・プンは、ウシャが生まれる3年半前、つまり1971年6月にマディチョールに生まれた。ウシャの家から歩いて10分ほどの所にあるアナンタの生家は、裕福な"ムキヤ(村の長)"の家として知られていた。

1980年5月、ネパールでは政党活動を禁止するパンチャーヤト制度を継続するか、あるいは複数政党制度を導入するかに関する国民投票が開かれた。
当時9歳だったアナンタは、村が複数政党制度支持者とパンチャーヤト制度支持者のあいだで二つに分かれ、子供たちまでをも巻き込んで喧嘩となったことを覚えている。学校の教師は大半が複数政党制度の支持者だった。

村に高校がなかったため、アナンタもウシャと同様に、8年生からリバンにある高校で学んだ。彼が住むホステルには、後にマオイストの政治局メンバーとなる"ビプラプ"ことネトラ・ビクラム・チャンダや、"ソナム"ことクル・バハドゥル・K・Cもいた。
彼らに共産主義思想を教えたのは、3人が学ぶ高校の科学教師クリシュナ・バハドゥル・マハラである。自身も貧困家庭の出身だったマハラは、生徒を平等に扱う教師として人気があった。

アナンタら3人だけでなく、後に人民解放軍を率いることになる"パサン"ことナンダ・キソル・プンを含めた、ロルパ出身の若手リーダーの大半はマハラの生徒である。