2002年7月まで発生した駆け込み亡命一覧

 

◆駆け込み亡命始まる

「駆け込み亡命」の先駆けとなったのは、20016月に起こった北京UNHCRへの7人駆け込みだった。

支援組織の「キルス家族救命運動本部」から私に同行取材の要請があり、待機場所の大連の隠れ家に向かった。この時大連に集結した難民は一族10人。2年を超える保護活動で支援団体は財政的に疲弊の極みに達していた。難民一族も何人かが北朝鮮に逮捕・送還されてまた中国に舞い戻ってきており、次に送還されるとかなり厳しい処罰があることを予期していた。

支援組織は保護活動が限界に達したことを伝え、三つの選択肢を提案した。

(1) 危険を覚悟してモンゴルルートに挑戦してみる
(2) 最後の支援金を元手に、各自が自己責任で中国で暮らしていく
(3) 北京のUNHCRに難民認定を申請しに行き、メディアに報道してもらって国際世論を味方につけ、難民認定を受けるまでUNHCR事務所に籠城する

10人は3日間話し合った末、若い男性3人がモンゴルルートに挑み、年寄りを含めた7人は北京に向かうことに決めた。そして万が一、中国の警察が自分たちを検挙するような場合は、自ら命を絶つことを覚悟し、殺鼠剤まで購入した。結果的にモンゴル組もUNHCR組もほぼ一週間後にソウル入りを果たした。

中国政府があっさり出国を容認したことは、難民支援組織やジャーナリストの間では意外なことと受け取られた。この駆け込み事件の直後に、2008年のオリンピック開催地決定が控えており、北京がその最有力候補だったことが、出国容認に有利に働いたのは事実だろう。

だが、その後に続く20023月のスペイン大使館駆け込み、4月の米国、ドイツ大使館、そして5月の瀋陽日本総領事館駆け込みなどに対する中国政府の対応を見ていると、この時、「表沙汰になった駆け込みは出国容認」が方針となったと考えてよいだろう。

北朝鮮送還という処置を取れば、激しい国際非難を浴びることは間違いない。北朝鮮のせいで中国が自らの人権水準をとやかく批判されたのではたまらない、ということなのだと推測できる。

中国政府は、「国際法と中国の国内法に照らし、人道主義の精神に基づいて処理するというのが、中国側の一貫した立場だ」と繰り返し表明して、「駆け込み」難民の第三国出国を容認してきた。

一方で、中国政府は一連の「駆け込み」を相当不愉快に感じ、首都を中心に繰り広げられる支援組織の「駆け込み」幇助を「大使館や領事館の安全に関わり、通常業務を妨害するだけでなく、中国の法律に対する挑戦で、中国の治安と安定にも影響する」と外交部報道官が厳しく批判している(20026月「人民日報」)。

第三国への密出国や「駆け込み亡命」事件の続発は、中国の入管体制秩序への挑戦だという観点と、北朝鮮からの難民流入を誘引したくないという観点から、中国政府は国際社会の目に触れないところでは、かなり乱暴な取り締まりに踏み切っている。とりわけ、支援組織への弾圧には敵意を剥き出しにしている。

なお、支援団体が計画した外国公館への駆け込み事件が相次いだことに対し、韓国内では「企画脱北」させているという批判の声も上がった。
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