第2回「マオイスト優勢の風向きを変えた9.11テロ事件」
ネパールでマオイスト=毛沢東主義者たちが台頭。
波乱の幕開けとなった虐殺事件から転換期である9.11テロまでを検証する。

 
  「2001年4月にマオイストが襲撃し、警官30人以上が死亡したルクム郡ルクムコット警察詰め所。襲撃後、廃墟となっている」

ホレリ事件――マオイストによる警察官捕縛事件
国王夫妻を含む王族10人が亡くなった王宮虐殺事件のあと、反政府武装勢力「マオイスト」の抗議キャンペーンの矛先はギャネンドラ新国王とコイララ首相にむかった。

マオイストは新国王が虐殺事件の首謀者であると主張するとともに、首都圏での爆弾テロなどを通じて、「コイララ首相が辞任しないかぎり、政府との和平交渉には応じない」とするキャンペーンをはじめたのである。

もともと、ネパール会議派のコイララ首相はマオイスト問題解決に武力制圧を主張するタカ派として知られていた。国軍である王室ネパール軍の実質的な指令権をもつ故ビレンドラ国王に、マオイスト制圧のために軍を発動するよう要求しつづけ、ビレンドラ国王はそれを拒否してきた。

マオイストが故ビレンドラ国王を「民主的な国王」と賛辞したことの背景には、こうした経緯があったのである。
1996年2月に人民戦争を開始して以来、「人民解放軍」と呼ばれる武装ゲリラ部隊の強化に努めてきたマオイストが、最初の大規模襲撃を決行したのは、2000年9月のことだ。ヒマラヤの懐にあるドルポ郡の郡庁所在地ドゥナイを襲撃したのである。王宮虐殺事件の2カ月前、2001年4月にはルクム郡とダイレク郡で続けて警察官のつめ所を襲撃し、警官約60人を殺害。王宮事件後、7月に入るとこのペースを速めた。そして、彼らの本拠地であるロルパ郡で警察官の詰め所を襲撃し、70人の警官を拘束するという「ホレリ事件」を起こしたのである。

拘束された警官救助のために、コイララ首相はギャネンドラ新国王に軍の発動を要請した。そして、ラジオや新聞などのメディアを通じて、ロルパで「軍がマオイストを包囲し、両者のあいだで交戦となり、マオイスト側に大勢の死者が出ている」とするニュースが毎日流れ出した。ところが、こうしたニュースが数日つづくうちに、果たして真実が伝えられているのかどうかという疑問が広がりはじめた。軍は現地から報道関係者を完全にシャットアウトし、ほとんどのニュースが国防省から流された情報をもとにしたものだったためである。

これを確かめるために、カトマンズから7人の人権活動家がロルパに向かった。ホレリ事件から1週間後の7月19日、筆者はある人権活動家の家で、たまたま7人が首都に戻ってすぐに報告に訪れたところに出くわした。現地を訪れた7人は、国防省が流した情報とはまったく異なる事実をもって戻ってきた。軍がロルパでマオイストと交戦したことも、マオイスト側に大勢の死者が出たということも虚偽のニュースだったのである。同じ19日、コイララ首相は側近にも知らせずに、突然、国営放送を通じて国民に辞任を伝えた。首相の要請にしたがって、ロルパで軍が展開されなかったことを、首相みずから知らなかったのである。コイララ首相は後に、辞任の直接の原因が、軍すなわち国王の裏切りにあったことを認めている。
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