スーチー演説を聞きに集まった大勢の市民。アラカン(ヤカイン)州シットウェ市(2002年12月)

また、アウントゥーは、「この事件の中で、スーチーが亡くなっていた可能性さえあります。警護を担当する若者たちの三重の壁を越えて、スーチーの乗る車のドアガラスが割られ、彼女は負傷しています。

そして、その場を運転手の判断で逃れた後、2台の車がぶつかろうとしています。さらに、事件現場から最終的に逃れるときに発砲されています。スーチーはこの状況下で運良く生き延びたといえます」と、スーチー死亡の可能性を指摘した。

政府当局によって、計画的かつ組織的に行われたのが間違いないとすれば、いったい何のためなのか。
「5月30日までのスーチーの遊説は、非常に盛り上がりを見せてきていました。すべての遊説先で成功を収めたといってもいいでしょう。すべての場所で人びとが歓喜して迎えています。

少数民族さえもです。アラカン州ではアラカン民族が、チン州ではチン族が、カチン州ではカチン族が、歓迎しています。その中でも人びとが最も歓迎した場所が、モゴックとモンユアでした。モゴックでは驚くほどの人びとが迎えました。

モンユアでは期待していなかったにも関わらず、 30万人の人が迎えたといいます。45分ほどで行けるところを、たくさんの人びとが迎えたため、3時間以上もかかりました。それほどの状態になったのです。こうした状況を、軍政は自分たちの権力を侵し始めてきたと判断したのです。

この状況を放置しておけば、いずれ手に負えない状況になってしまう。最期には彼らには2つの選択しかありませんでした。このまま放置するか、ここでどのような方法を使ってでもとにかく封じ込めるか。そして、彼らは後者の方法を選んだのです」と、アウントゥーは分析する。

アウンサンスーチーはなぜ解放されないのか
ビルマ軍事政権がアウンサンスーチーを解放できないのは、彼女自身がこの事件の当事者であり、証言者であるからだ。彼女の目の前でたくさんの人びとが殺されていった。彼女が解放されれば、この事件について沈黙したままでいるはずがない。

この事件において、被害者のみが拘束・投獄されており、加害者はいまだ一切処罰されていない。一時拘束されたのち釈放された者は、この事件について一切口外しない旨の署名をさせられている。弾圧を恐れて、ビルマ国内にいる事件の被害者は、この事件についてなかなか語ろうとしない。犠牲者の遺族でさえ、その思いを誰にも語ろうとはしない。

事件現場の農業省灌漑局の敷地には、ディペーイン第二警察署が建設された。
「埋めた遺体を永久に隠蔽するためだ」
恐怖に覆われたビルマのなかで、人びとはそう囁きあっている。

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