約1年にわたり拘束中の映像作家テインダンさん(テインダンさん提供)

「懲役3年です。ダンさんら6人みな同じです」

2022年3月31日夜、今か今かと一報を待っていた支援者のもとに電話が入り、私は空を仰いだ。同日ミャンマーで不当に拘束されている日本育ちのミャンマー人映像作家テインダンさんらの判決公判があるとされ、友人やマスコミ関係者が都内の飲食店に集まっていたのだ。

友人たちは一様に「許せない」などと抗議の声をあげた。それもそのはず、テインダンさんはまったく罪がないばかりでなく、拷問のうえ虚偽の自白を強要され、有罪とされたからだ。同じくミャンマーで1か月にわたり拘束された北角裕樹がその経緯について改めて説明したい。

◆6歳から茨城に暮らしたダンさん

ダンさんはミャンマーで生まれ、6歳で父の仕事の都合で日本の茨城県に移住した。小学校のころ、日本の友達と遊ぶ小遣いがなかったので図書館に引きこもり、片っ端から映画を見続けた。

幼心に胸をときめかせたのは、少年たちが冒険に向かう米映画「スタンド・バイ・ミー」(1987年)。映画に夢中になったダン少年は俳優を目指して都内の俳優養成学校に通い、そして子役として学園ドラマにも出演するようになった。

高校卒業後、映画監督になろうと日本映画学校(現日本映画大学)に入学。卒業後には助監督や芸能マネジャーなどとして現場を踏んだ。この時期、クラウドファンディングで資金を集めて短編映画「めぐる」を監督している。

そしてミャンマーに民主化の時代が訪れたことで「いずれ母国で映画を撮りたい」と最大都市ヤンゴンに会社を設立。2017年ごろから両国を行き来する生活を始めた。2000年には監督した短編映画「めぐる」がヤンゴンの映画祭で賞を受けるなど、ミャンマーでの活動も評価されてきていた。そんな中の昨年2月1日、ヤンゴン滞在中にクーデターに遭遇したのだ。

クーデターが起きた2021年2月には、多くの若者が街に出て抗議の声をあげた。ヤンゴンで筆者撮影。

◆クーデター直後から街に繰り出すも逮捕

クーデター直後から彼はこの状況を何とかしよう考え、自分にできることは記録を残し情報発信することだと判断したようだ。プロのジャーナリストではなかったが、映像作家の技術を生かし、カメラを持って街を駆け回った。ミャンマー語を駆使して、市民や若者がどうしてデモに繰り出すのか、その気持ちを汲み取っていた。

2月下旬に入ると、国軍によるデモ隊や市民への弾圧が本格化。当局に追われてどぶに隠れたり、発砲され銃弾が目の前をかすめたりしたこともあったという。気分屋でもある彼は浮き沈みが激しく、時折私に連絡をしては「勝てるんだろうか」「捕まりたくない」という弱気な声も漏らしていた。

そして4月17日、彼は潜伏先のホテルで知人女性とともに逮捕された。仲が良かったデモ隊の学生らが数日前に拘束され、拷問を受けた学生のうちひとりがダンさんに言及したのだと後でわかった。

その日私は、彼の友人から「ダンさんがいなくなった。逮捕されたかもしれない」という連絡を受けて、事実確認や弁護士への相談など対応に追われていた。しかし、ミャンマーの当局はもともと誰を捕まえたのか発表しない。家族が問い合わせても答えない。

行方がつかめないまま翌18日、今度は私の自宅に、軍と警察に混成部隊がやってきた。そして、リーダー格の私服姿の軍人が私に尋ねた。「テインダンを知っているか」。そして私は逮捕され、政治犯の収容所として悪名高いインセイン刑務所に送られた。

刑務所で取り調べが始まると、ダンさんの供述調書が示された。そこには、彼が私にビデオを複数回にわたり提供したこと、その対価として2000ドルを受け取ったことが書かれていた。全く身に覚えのないことだった。

私は取り調べに対し「大使館員と弁護士と会ってからでないとしゃべらない」として事実上黙秘を続けていた。しかしこれは否定しておかないといけないと思い、「事実ではない」とはっきり伝えた。

その場で警察官はノートパソコンとプリンターを使って、私の調書を作成しサインを求めた。そこは否定したはずのことが「よく覚えていない」というように改ざんされていた。訂正を求めると警察官は「お前は捜査に協力していない。ならば俺が勝手に書いても仕方ないだろう」と笑った。もちろん私はサインを拒否したが、その時作成された未署名の調書がどう扱われているのかはわからない。

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