カレンの地、コートレイ国の中心地、マナプロウ。そこはビルマ軍事政権に抵抗する国民民主戦線とビルマ民主戦線の司令部でもあった。宇田はマナプロウ入りの計画を実行に移したが...

(写真右:タイ・ビルマ国境であるサルウィン河を挟んで密貿易も盛ん。河岸でビルマ側からタイ側へ送る水牛を乗せるボートを待つ。)

1940年代に火を噴き、ビルマ辺境で抵抗を続けている、いわゆる「少数民族」のうち、現在も武器を持って軍事政権に抵抗闘争を続けている最強の民族集団は、主にカレン人である。

カレン人はもともと、モンゴルから中国雲南を経て、ビルマに下って来たと伝えられている。人口約200万~600万人のカレン人は、その言語形態から、大きく分けてスゴーカレンとポーカレンの2つに別れる。
他の民族集団に比べ、どうしてカレンだけが強固な反政府抵抗を続けてこれたのだろうか。

英国植民地の末期、<英国+カレン人>対<日本+ビルマ人>という勢力図式ができあがっていた。カレン人は英国の指導のもと、民族団体としてはかなり組織化が進んでいた。独立後、ビルマ政府に反旗を翻すときのカレン人の結束は、単なるゲリラ組織と言うより、政務機関をいくつももった、国家にかなり近い組織体を作り上げることに成功していた。また、カレン人組織は、タイ・ビルマ国境貿易を通じて独自の財源を確保していた。

しかしそれ以上にカレン人は、ビルマにおける自由を求める闘争の先駆者でもあった。1881年、ビルマを含む英領インドにおいて最初の政治組織(KNA)を組織したのはカレン人である。これは、インド国民会議(INC)結成の4年も前のことであった。

メーサリアンから乗り合いピックアップバスで
約2時間。タイ・ビルマの国境線であるサル
ウィンウィン河にたどり着く。タイ側で水遊び
に興じる子どもたち。

1993年5月半ば、雨季はすぐ目の前に迫っていた。私はカレンの地、KNUの本拠地コートレイ国(kawthlei=カレン語で「花咲く大地」「平和な大地」の意)の中心地、マナプロウ総司令部に入る計画をしていた。

マナプロウは、ビルマ軍事政権に抵抗する辺境の諸民族の連合組織・国民民主戦線(NDF)の司令部でもあった。また、1988年に起きた首都ラングーンの民主化デモの弾圧から逃れてきたビルマ人たちとの結集団体・ビルマ民主戦線(DAB)の総司令部も兼ねていた。

マナプロウ入りしたことのある日本人記者の紹介状を携えた私は、マナプロウを目指し、タイ第2の都市チェンマイと向かった。名前と住所、電話番号だけをたよりに、紹介された人を訪ねていった。

だが、教えられた人物はもはや、その住所には住んでいなかった。そこで手がかりがプッツリ切れた。

 

タイ側に作られたカレン人のメーサリート難
民キャンプ(93年時)98年にメラキャンプ
(人口約3万人)に統合された。

途方に暮れた私は、仕方なく、できるだけビルマに近い国境の町メーサリアンへと移ることにした。しかし、そこでどうにかなる当てなど全くなかった。時間つぶしに、また、かすかな希望を持って、サルウィン河へと向かってみることにした。

メーサリアンからピックアップトラックの後部を改造したバスで約2時間、サルウィン河の町メーサムレップにたどり着いた。河の向こうはもうビルマ領だ。しかし、タイ語もビルマ語もできない私は川縁で立ちつくした。

3日間、当てもなくただただ、メーサリアンとメーサムリップを往復する日を繰り返していた。4日目の朝、いつものようにピックアップトラックの後部に乗り込むと、若いカップルと1緒になった。何を思ったのか、私は英語で話しかけてみた。
「どこへいくのですか。私はカレン人を探して、メーサム・レップまでいくんだけど」
若い男が何のてらいもなく答えてくれた。

「どこから来たのか。日本人か。私たちはカレン人だよ。これからこの娘をマナプロウに送り届けるんだ。彼女はそこで

カレン民族同盟(KNU)の軍事部門・カレン
民族同盟(KNLA)は7つの旅団から構成
されている。そのうち最高齢の旅団長であ
るティマウン第7旅団長(75歳)は、今もビ
ルマ側のジャングルで指揮をとる。

看護学校に通うことになってるんだ」
マナプロウ。
それこそが私が行きたいと思っていたKNUの本拠地ではないか。見も知らぬ外国人に簡単にそんなことを喋ってもいいのか。ちょっと不審に思った。しかし、その時、ピックアップトラックを降りた後の彼らの行動が気になってしまった。

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