■ 第8回 ロルパにおける与党ネパール会議派との対立

ロルパで活動していたマオイストの文化部隊。前列の一番右側にいるのがウシャ。(写真提供:オンサリ・ガルティ・マガール)

ロルパで活動していたマオイストの文化部隊。前列の一番右側にいるのがウシャ。(写真提供:オンサリ・ガルティ・マガール)

 

nepal_maoist_B0200_0011990年2月にネパール会議派と7つの共産系政党が複数政党制度の復活を求めて民主化運動を始めたとき、ウシャは15歳、リバンにある高校の8年生だった。
約60日間にわたる民主化運動が成功し、4月8日にビレンドラ国王は複数政党制度を導入することを宣言した。ほぼ30年ぶりに政党活動が自由になり、ロルパでも地下で活動していた複数の政党がオープンに活動を始めた。

なかでも、ロルパで支持者が多かったのは、ネパール会議派と極左系のネパール共産党マシャルである。後者はその後、他党と合併してネパール共産党エカタ・ケンドラ(以後、「エカタ・ケンドラ」とする)となり、その一派がネパール共産党毛沢東主義派、つまりマオイストとなるのだが、ウシャはリバンの高校にいたとき、ネパール共産党マシャルの傘下にある学生組織のメンバーとなった。

高校教師で、後にマオイストのリーダーとなったクリシュナ・バハドゥル・マハラの家の前でポーズをとるウシャ。このとき9年生。(写真提供:オンサリ・ガルティ・マガール)

高校教師で、後にマオイストのリーダーとなったクリシュナ・バハドゥル・マハラの家の前でポーズをとるウシャ。このとき9年生。(写真提供:オンサリ・ガルティ・マガール)

この学生組織を率いたのが、ウシャと同じマディチョール出身のアナンタや、バンの高校で彼と同窓生だったビプラブやソナムである。彼らにコミュニズムを教えたリバンの教師クリシュナ・バハドゥル・マハラは、民主化後初の総選挙に立候補するために教師を辞めた。

マハラは、民主化後も"地下政党"として活動していたエカタ・ケンドラの"表の政党"である統一人民戦線ネパールから立候補して、当選した。

ロルパには二つの選挙区があるが、全国75の郡のなかで唯一、両方の選挙区とも統一人民戦線ネパールが勝っている。マオイストが後に、ロルパを武装活動の本拠地として人民戦争を展開することを決めた背景には、当時から、ロルパはマオイストの母政党である統一人民戦線ネパール、つまりエカタ・ケンドラが最も強い支持基盤を持っていたという事実がある。

1991年に開かれた民主化後初の総選挙で、ネパール会議派が過半数の議席を獲得して政権を掌握すると、ロルパでは同党とエカタ・ケンドラの対立が深まっていった。与党となったネパール会議派は警察などの国家権力を利用して、エカタ・ケンドラの活動を制圧しようとし、一方、エカタ・ケンドラはそれに対抗する形で与党の活動家や支持者への個人襲撃を行った。

1992年に開かれた地方選挙のときに両党の対立は激化した。ロルパ郡にある51のVDC(村開発委員会)のうち、マディチョールがあるジャンコットを含む6つのVDCで、エカタ・ケンドラが村長を初めとする村開発委員会の議席を占領した。エカタ・ケンドラが他党の立候補者の届出を妨害するなどしたために、同党以外の政党の立候補の届出が皆無という状況になったためである。