◆戦争の歴史の教訓と権力を持たない側の「リアル」

何をもってリアルと捉え、現実的な考え方だと判断するのかは、それぞれの立場によって異なります。

しかし、おうおうにして権力を持つ側の「リアル」が、マスメディアや教育制度などを通じて世間を染め、人心を染めてゆき、権力を持たない側の「リアル」を見えなくさせ、あるいは抑えこんで、事が運ばれてしまいます。

アジア・太平洋戦争当時の日本は、まさに権力を持つ側の「尽忠報国」、「挙国一致」、「大東亜共栄圏」などの言説が、「リアル」なものとされて国民を一色に染めあげていました。国民もまたそれに呼応していきました。

そして、その帰結のひとつが、「国体護持」の捨て石とされた沖縄戦の犠牲でもあったのです。

敗戦で日本人は「皇国神話」から目が覚めて、権力を持たない側にとっての「リアル」とは、戦争がもたらす死と傷と廃墟そのものだと気づいたはずではなかったのでしょうか。

自らは安全圏にいて、人びとに「やむをえない犠牲」と称する犠牲を強いる権力の「リアル」さ、そして責任をうやむやにして逃れる権力の「リアル」ぶりを、見抜いたのではなかったのでしょうか。

それが戦争の歴史の教訓だったはずです。

そうであれば、いままた「国益」や「国の誇り」なる言葉を掲げ、大所高所からの見方というふれこみで説かれる、日米同盟の強化・沖縄の米軍基地の重要性という主張に対し、眉に唾をつけて聞くのも当然だと思われますが、しかし、実際はどうでしょう。

大多数の日本人は、「日米安保・同盟神話」の惰性にひたり、思考停止におちいっているのではないでしょうか。

あるいは、そもそも何も見抜いてなどいなかったのでしょうか。
沖縄が戦争と基地の痛みとともにつちかってきた「命の視点」。

権力を持つ側の「リアル」、現実的と称するその考え方に決して同化しない、「命の視点」のリアルさが、いま私たちに大きな問いを発しています。

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