■日本人として立派に
ソ連参戦、そして敗戦。守ってくれるはずの関東軍はいち早く逃げ、労働力の中心だった若い男性は根こそぎ動員された。残っていたのは「老幼婦女子」。開拓団が「匪賊」と呼んだ一部の現地住民による襲撃が相次ぎ、治安は悪化の一途をたどる。一方で「治安維持会」を名乗る現地組織がやってきては、「村を守る」という名目で物品の要求をエスカレートさせていった。

集団自決に至ったのは45年9月17日の未明。当時、責任ある立場だった一人の男性はこう書いている。
《当時の日本人としては最後には「立派な死に方をする」ということを念じており、このような状況下に全員自決の決心をしたことは極めて当然のことであった。そうして到底逃げることの出来ないことを知った団員は495人が服毒自殺した》

■「やっと楽になったネ」
「全員に青酸カリが渡されていたのだそうです。まずは子どもからですよね。母親たちはどんなに辛かったか。うちの母親は、長女が何度も吐き出したため、自分の分も飲ませたようです」と竹口さん。
死に切れない人を年配の男性が刀で切りつける。そして家に火が放たれる。『子どもが、子どもが』と半狂乱になって戻ろうとするツヤ子さんを、同郷の女性が必死で引きずっていったという。ツヤ子さんは夫の楠雄さんに対しても沈黙を貫いた。楠雄さんは妻の死後、この女性から初めて当時の話を聞かされたという。

ツヤ子さんは帰還した古里でも、心無い視線にさらされた。楠雄さんの手記を引こう。
《「自分の命はそんなに惜しいものかなァ、五人の子どもを殺して自分だけ助かって」と。その言葉を妻はどんな気持で聞いたでしょうか。妻は生きている間苦しみ通したと思います。妻が息を引き取った時私は言いました。「お前もやっと楽になったネ。早く子どもたちのところに行ってやってくれ」。私はニ・七日まで毎日泣きました》

■沖縄で重なる思い
竹口さんは47年、引揚者が入植した熊本の開拓地で生まれた。4人きょうだいの「長男」。上に姉や兄がいたことは、家にあった瑞穂村時代の写真でも知っていた。「でも、ただ漠然と戦争で死んだと思っていました」。写真の中には、誕生前の次男以外、4人の幼な子が納まっている。女3人、男1人。戦後の4人きょうだいと同じ構成。まるでそっくり生まれ変わったかのように。

両親と姉3人、兄1人が写る「瑞穂村」時代の家族写真=竹口さん提供

両親と姉3人、兄1人が写る「瑞穂村」時代の家族写真=竹口さん提供

今年1月、竹口さんは家族の「物語」を初めて人前で話した。「甲賀・湖南人権センター」主催の平和ツアーで訪れた沖縄で、貸切バスの車中、自らマイクを握ったのだ。
前日、座間味島を訪ねたのがきっかけだった。沖縄戦初期に住民の「集団自決」が起きた島。「話したくない」という体験者。それでも「戦争が美化されないよう事実は事実として語らねば」と、勇気を振り絞る姿に触発された。
「戦争は人を人でなくしてしまう。一番苦しむのは民間人。戦争は二度とあってはあかん」
瑞穂村開拓団に連なる情報を、竹口さんはいま強く渇望している。
【栗原佳子/新聞うずみ火】
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