2014年10月、大阪・泉南地域のアスベスト被害者やその家族らが国を訴えた、いわゆる「泉南アスベスト国賠訴訟」の最高裁判決で国の責任が断罪され た。12月には賠償額を算定するため大阪高裁に差し戻しになった第1陣原告と国側が和解。大阪泉南アスベスト国賠訴訟は終結した。日本における「アスベス ト被害の原点」とされるこの訴訟を改めて振り返るとともに、残された問題について考察する。(井部正之)

公害被害者らとの交渉で答弁する斉藤鉄夫環境大臣(当時、中央)。不思議なことに、アスベスト被害について最初は全く触れられなかった

公害被害者らとの交渉で答弁する斉藤鉄夫環境大臣(当時、中央)。不思議なことに、アスベスト被害について最初は全く触れられなかった

 

◆忘れられたアスベスト被害

「勝ち気だった母がひどい息切れとせきの苦しみのため、『死んで楽になりたい』と訴えます」

2009年6月1日午前11時過ぎ、東京・霞ヶ関にある中央合同庁舎第5号館の環境省の1室。公害被害者と斉藤鉄夫環境大臣(当時)との交渉の席で、武村絹代さんが緊張した面持ちで語った。

武村さんの母、原田モツさんは1970年から13年間、大阪府岸和田市のアスベスト紡織工場で働き、石綿肺と続発性気管支炎を発症した。「真っ白で前が見えないほど」工場内はアスベスト粉じんが舞い、床にも積雪したかのように積もっていた。

「危険だと知っていれば、石綿工場で働くことはありませんでした」という原田さんの思いから、武村さんはこう訴える。

「国はどうして、石綿が危険だと知っていたのに知らせてくれなかったのでしょうか。せめて、今からでも、国は謝罪と一刻も早い救済をしてください」

大臣交渉は公害などの解決を国に求める「第34回全国公害被害者総行動」の一環として実施されたものだ。武村さんの訴えは、水俣病被害や嘉手納基地の爆音被害者と共になされている。

斉藤環境大臣は"省としての見解"の域を出ないながらも、それぞれの訴えに対して考えを述べた。

ところが、アスベスト被害については触れずじまいだった。あらかじめ要望事項は出してあったので返答を用意していないはずがなく、読み忘れなのだろ う。改めて回答を求められて、「苦しんでいる方が本当に安心できる枠組みになるようがんばりたい」とようやく口にしたが、具体的な内容は一切なかった。

午後の事務方との交渉でも、大気汚染対策などではざっくばらんに笑顔すら見せながら今後の方針について明かしていた環境省側は、アスベスト被害に話 が及んだとたんに表情が硬くなり、極めて事務的な対応振りになった。石綿健康被害救済法(石綿新法)の制定前から指摘を受けてきた、石綿肺などが対象外と されている問題についても、「これから検討するところです」と答えるのみで、過去の対応への反省すらない。

武村さんはしきりにハンカチで目元をぬぐっては硬い表情で事務方を見つめていた。

「(環境省に)腹が立って仕方なかった」

交渉後、絞り出すようにつぶやいた。

◆異常な石綿肺の発症率

冒頭で紹介した原田さんは、大阪・泉南地域のアスベスト被害者による国家賠償訴訟の原告だ。2006年5月に大阪地裁で提訴されたこの訴訟は、アス ベスト公害における国の責任を初めて問うと共に、石綿新法の抜本的改正やすべての被害者への「全面的な補償」などを求めている。

斉藤環境大臣による答弁でアスベスト関連が省かれたことは「ついうっかり」の類だろう。だが、この間の国の対応ではそうとは考えられないことが多すぎる。そのいくつかはこの訴訟にもみられる。

原告側は主に、(1)戦前の1940年には政府は泉南の石綿工場で石綿肺などの多発を知っていた、(2)この段階で対策は技術的に可能だった、(3)国は徹底した粉じん対策の実施を指導もせず、労働者に危険性を伝えることすらしなかった――と主張する。

これに対し国側は、「専門的知見を踏まえて、石綿肺などの防止に有効な法令等を適切に整備するとともに、その時々の法令に基づいて、監督権限を適切かつ的確に行使してきた」と反論する。

つまり、この間の対応に不備はなかったというのである。(続く)

※初出「アスベスト公害、行政・企業の"ウソ"を暴く(1)国が隠ぺいする戦前の泉南調査 2つのウソに透ける国の思惑」『日経エコロジー』2009年8月号を一部修正。なお、文中の年月や関係者の肩書きなどは発表当時のままである。

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