マオイストの本拠地ロルパへ
前回の取材行はマオイストがアレンジし、彼らのガイド付きだったが、今回は、ロルパの南に接するダン郡ゴラヒに住む地元の日刊紙記者ウダヤ・ガルティ・マガルが同行した。

ウダヤ自身、ロルパ郡出身のマガル族である。私たち二人は9月20日午前10時半、ジープでゴラヒを出発、車で行ける最終地点であるロルパ郡南にあるダハバンに向かった。

未舗装の悪路を北へ4時間、車1台がようやく通れる道幅しかない山道を“走る”というよりものろのろと進むあいだ、2,3台のローカルバスとすれちがった以外は見かけた車もない。(写真右: マオイストが人民戦争開始の日に襲撃したホレリ警察詰め所。2001年7月の“ホレリ事件”後、詰め所に警官は戻らず、建物もマオイストに破壊された。)

ダハバンの手前にあるホレリ・バザールで、廃墟となった警察詰め所の横を通り過ぎた。1996年2月13日、マオイストはこのホレリ警察詰め所を襲撃して、人民戦争を開始した。2001年7月、マオイストは再びこの警察詰め所を襲い、有名な“ホレリ事件”を起こしている。

この事件で、マオイストは警官1人を殺害して70人の警官を拉致。当時のコイララ首相は警官救助のために、王室ネパール軍の展開をギャネンドラ国王に要請したが、軍は要請どおり展開されず、これを国王と軍による“裏切り”と理解したコイララ首相は、事件の1週間後に辞任した。この事件後、ホレリ警察詰め所は引き上げられ、村から警官がいなくなった。

午後2時半、ダハバンに到着した。標高約1500メートルのところにある小さなバザールは霧に包まれて周囲が見通せない。茶店に入ると、早速、マオイストのDCM(District Comittee Member、郡委員会メンバー)に会った。

官憲や国軍の治安部隊もここまで来ることはほとんどなく、すでにマオイストの“アダール・イラカ(本拠地)”に入ったことを実感する。このDCMにロルパを訪れた目的を話すと、「ヌワガウンに行って、党の人間と接触しろ」と言う。暗くなる前にヌワガウンに着くために、私たちはすぐにも歩き出した。

赤土の松林を半時間も下ると、強い雨が降り出した。雨宿りをする民家も岩陰もないために、とにかく早足で山を下るしかない。ところが、滑りやすい赤土のために、急ごうとするとすぐに足がとられる。傘をさしても、雨をさえぎるのは肩から上だけで、リュックはすぐにびしょ濡れになった。

インドへ出稼ぎに行き、家に帰る途中だという数人の村人は、全員が大きな荷物を背負っていたが、身体をすっぽり覆う大きなビニール・シートをかぶり、早足で降りていく。山を下ったところにある民家で雨宿りをしたために、ヌワガウン村に着いたときには、すでに暗くなりかかっていた。

この村には、たまたま同行したウダヤが学んだ学校があった。彼を教えた教師の家が、この夜の宿となった。村人を通じて、マオイストとの接触を試みると、翌朝、20歳代前半の“バーラト”という党名をもつマオイストがやってきた。

彼は、ロルパの北の端にあるタバン村に人民解放軍が集合するプログラムがあることを明らかにした。ここからタバンまでは地元の村人の足で丸2日、私の足で3日はかかる。バーラトは、タバンに行けば、指揮官“パサン”を含めた大勢のリーダーに会えるはずだと言う。

昨夜、村の店先で会った数人の若い男たちのグループも、目的地を名言しなかったものの、タバンがある“マティ(上、つまり北のこと)”に向かっていることをほのめかしていた。私服だったが、リュックを背負っていることや、村人に対して話しかける様子から“ツァパマール(ゲリラ、つまり人民解放軍兵士)”であることはすぐにわかった。

バーラト自身、ロルパを本拠とする人民解放軍第一旅団のメンバーだった。今年3月の“ベニ襲撃”をはじめとする数多くの襲撃に参加したと言う。今年6月に平野部にあるバンケ郡シャムシェルガンジで、武装警察隊22人が死亡したアンブッシュ(待ち伏せ攻撃)は彼一人で行ったのだと、彼は話した。

道路に導線のついた地雷を仕掛け、丸2日間、治安部隊の車が通るのを待ったあと、スイッチを押したのだと言う。何気ない話し方から、彼が経験のあるツァパマールであることがわかる。バーラトもダハバンで会ったDCMと同じ指示を出した。「先に進んで、ある程度責任ある地位のマオイストと接触をしろ」というのである。
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