“ホレリ事件”の現場
(写真右:ヌワガウン村にある学校。“ホレリ事件”直後に、治安部隊とマオイストは握手をして別れた現場はこの先にある。現場を見にきた人権活動家のグループは、この学校の校庭でマオイストの“歓迎”を受けた。)

バーラトの指示どおり、私たちは先に進むことにした。とりあえず、ガイリガウン村のティラを目指すことにする。チャクリ川沿いの道を15分も歩くと、3年前の“ホレリ事件”後、警官救出のために展開されたことになっていた王室ネパール軍とマオイストが“握手をして何もせずに別れた”場所を通り過ぎた。

この事件のことは私もよく覚えている。当時、カトマンズにいた私は、事件の翌日から、地元メディアが報道していたニュースを頭から信用していた。「初めてマオイストに対して展開された王室ネパール軍が、ロルパ郡ヌワガウン村でマオイストを包囲。

交戦により500人を超すマオイストが死亡した」とするニュースが連日、各紙のトップを飾った。しかし、数日すぎると、「メディアが伝えるような交戦はまったく起きていない」とする地元村人の話がカトマンズにも伝わってきた。

真実を探るべく、カトマンズから大勢の記者がロルパへ向かおうと駆けつけたが、軍側は彼らをダン郡ゴラヒで足止めし、ロルパへ入るのを禁じる措置をとった。しかし、治安部隊の阻止を振りきって、ヌワガウン村まで入った人権活動家のグループが、軍側が伝えるような交戦はなかったとする村人の証言を得て首都に戻ってくると、軍側の“虚偽”は隠すべくもなくなった。

軍は、コイララ首相を含めた政府にまで“嘘”をついていたのである。人権活動家のグループが真実を明らかにした翌日、コイララ首相は突然、国営放送を通じて辞任を表明した。

当時この村で何が起こったのか。それは茶番劇としか言えないような出来事だった。ヌワガウン村で軍の治安部隊と“遭遇”したマオイストは、距離を置いてとどまっている治安部隊に対して、メガフォンを通じて「何をしに来たのか」と問いかけた。

向かいあった両者は、一人ずつの代表が前に出て、互いの意図を記した書簡を交換することで同意した。両者はこうして、お互いに“交戦”をする意図がないことを確認すると、前に進み出た2人の代表が握手をして別れたというのである。

この出来事は、軍が国民に選ばれた政府よりも、指揮権をもつ国王に忠実であることを示した例として今でも話題に上る。王室ネパール軍はその後、2001年11月末にマオイストと政府との最初の対話が決裂した直後に、国家非常事態宣言が発令され、マオイスト掃討のために全面展開されて今に至っている。軍が展開されたあと、人民戦争は急速に激化、犠牲者の数も急増した。
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