マオイストのリーダーとの接触へ
ヌワガウンを出た私たちは、チャクリ川沿いに東に向かった。ダルバイ川が交わる地点で北に折れ、2時間を超える登りのあと、ガイリガウン村ティラのバザールに着いた。出発が遅かったため、この時点ですでに午後3時になっていた。

この先にはさらに急な登りがあり、雨も降り出したこともあって、私たちはティラに宿泊することにした。ところが、宿の女主人は「3時間も歩けばガルティガウンに着くから、ここで休まずに進め」と盛んに勧める。

不自然なほどにしつこい勧め方を聞いていると、まるで「ここには泊まるな」と言われているようで、少々不愉快にさえなった。そうこうしているうちに、女主人の弟が現れた。弟は、私たちの意図を快く受け入れて、部屋を提供してくれることとなった。

あとで村人から聞いてわかったことだが、女主人の息子は王室ネパール軍に勤務しており、それだけでも、何かと村のマオイストの目にかかるのに、よそ者の“パトラカール(ジャーナリスト)”を泊めたために、マオイストに咎められるのを恐れたのだった。

ここでも、すぐにマオイストの方から会いにきた。今度は、“パダム”という党名をもつ18歳のマオイストである。マガル族のパダムは、隣の村の学校に通うこの地区の学生リーダーだった。若い年齢にもかかわらず、パダムは私たちがするたくさんの質問に、落ち着いて答えてくれた。

これまでにさまざまな所で会ったマオイストのなかには、ジャーナリストに対する疑いを隠すこともなく、反感を含めた態度を示してくる人も少なくなかったが、パダムにしろ、バーラトにしろ、今回ロルパに入ってから会ったマオイストは皆、親切な態度で接してきた。

ネパール共産党毛沢東主義派の党首“プラチャンダ”ことプスパ・カマル・ダハルは、9月1日に出した声明文のなかで、“ネパールの僻地にある、ある村” で、最近、党中央委員会の総会が開かれたことを明らかにした。ふとしたことから、私はこの総会がロルパで開かれたことを聞いていた。

実際にロルパに来てみて、さまざまなマオイストに聞いてみると、誰も明確には言わないものの、総会がタバン村で開かれたらしいことが推測できた。普段はインド側に潜行している党首プラチャンダをはじめとする幹部を含めた、中央委員95人全員がこの総会に出席したという。

この中央委員会総会では、さまざまな新決定がなされ、新しい方針が打ち出された。そうした新決定の詳細を聞くことも、今回の取材の目的の一つだった。マオイストの党組織全体が地下に潜行している状態では、カトマンズにいたのでは、なかなか詳しい情報は伝わってこない。マオイストが支配する地域に実際に入って、彼らと直接話しをすることが、詳細な情報を得る最良の方法であることは、これまでの取材で実感してきた。

中央委員会の新決定について、私はまずパドマに聞いてみた。彼は臆することなく、ほとんどの質問に答えてくれた。新決定については、後の章で詳しく説明するつもりであるが、今回の中央委員会でなされた最も重要な決定の一つが、彼らの武装勢力である人民解放軍の組織を大幅に変更したことである。

マオイストはこれまで西ネパールと東ネパールに二つあった師団を三つに増やし、新たに“中部師団”を結成した。これまで西部師団の指揮官だったロルパ郡ランシ村出身の“パサン”こと、ナンダ・キソル・プンがこの中部師団の指揮官に任命されたという。人民解放軍の兵士たちがタバン村に集合しているのも、おそらく、この決定にしたがって、連隊や大隊を組み直すことが目的ではないかと予測された。

私たちの取材の目的、すなわち、マガラート自治区人民政府の議長サントス・ブラ・マガルに会いたいむねをパドマに告げると、彼もそれまでに会ったマオイストと同じ答えを返してきた。「リーダーがどこにいるのか、自分たちには情報がない。

先に進んで、そうした情報をもっている上のレベルのマオイストと接触を試みろ」というのである。先に進む事に関して問題はないものの、私たちには二つの選択肢があった。タバン村、ルクム郡への主要ルートであるガルティガウン村へ向かうか、3日後の24日から3日間にわたり、マオイストが主催した“ジャナバディ・メラ(コミュニスト祭)”が開かれるというコルチャバン村へ向かうかである。

ガルティガウン村に行くには、険しい山を越えねばならず、コルチャバン村への道よりも時間がかかる。マオイストが主催する祭りにも興味はあったが、私たちはリーダーとの会見のために、早く上のレベルのマオイストとの接触を確立することを優先し、マオイストの出入りが多いガルティガウン村に向かうことに決めた。後になり、私たちはこの選択が正解だったことを実感することになるのだった。
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