そして、「爆発物を含んだサッカーボールの生産が加速したとき、街頭は人間サッカーボールであふれ、“4月6日(1990年の民主化運動でカトマンズ市内を市民のデモ隊が埋めた歴史的な日)”が来ることになる」と続け、この日が来たら「無政党主義者(絶対王政派のこと)のDr.トゥルシ・ギリやそのアドバイザー、サラド・チャンドラ・シャハ氏は、間違いなく再び海外に逃亡することになる」と言い切った。筆頭閣僚のDr.ギリは1990年民主化後、スリランカやインドで、シャハ氏はシンガポールで半亡命生活を送ってきた。

サングラウラ氏は他の多くのネパール人と同様、国王が自らの手に実権を握ることは予測していたが、ここまで極端な方法をとるとは思わなかったと語る。
「まず、ほとんどの市民権が凍結されたこと。報道の自由ばかりでなく、法律で保護される自由さえ奪われた。そして、政党リーダーを一斉に拘束したこと。最初の1週間、通信の手段を遮断したこと。パンチャヤト時代の古い政治家を連れてきたこと。すべて、予想外のことだった」
しかし、こうした状況を長く続けることはできないとサングラウラ氏は言う。

「これまで王室派と言われてきた人たちのなかでも、少しでも威信のあるリーダーは国王の動きを支持する声明を出していない。国民民主党のパシュパティ・シャムシェル・ラナ党首しかり、ビスワ・バンダ・タパもラジェスワル・デブコタも沈黙を保っている。民主化後、汚職政治もなくならず、雇用状況も改善されず、一般国民の政党に対する不満は確かに大きい。

しかし、だからといって、一般国民が積極的に国王のしたことを支持しているわけではない。とりあえず、状況が良くなるかどうか見てみようという姿勢だ。しかし、国際社会からほとんど支持を得られない状況で、国王に何か画期的なことができるとは思えない」

最大2政党のネパール会議派(NC)とネパール共産党統一マルキスト・レーニニスト(UML)を含む5政党が、「完全な民主主義」を求めて街頭運動を進めているが、この運動が前途多難であることも認める。
「今、街頭運動にはごく限られた人しか出てきていない。政党内でも自分たちのリーダーに対する信用がない。しかも官憲側の統制が厳しすぎる。したがって、一般市民がすぐに運動に加わるとは思えない」

1990年民主化運動当時には、当時非合法だった政党に加えて、文学者・知識人や医師・大学教員・弁護士なども積極的に運動に参加して大きな役割を果たした。しかし、「2月1日政変」後、こうした人たちも沈黙を保ったままだ。

「政党政治家に裏切られたという思いが私たちのなかにもある。1990年の民主化運動当時、ガネシュ・マン・シンなどの政党リーダーは私たちにとって“デウタ(神)”のような存在だった。政党リーダーに対する大きな希望があった。ところが、多くのリーダーは民主化後の汚職政治で悪名ばかり高くなり、社会に向ける顔がなくなった。
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