タバン村を”赤の村”にしたバルマン・ブラ・マガール。(2006年6月 撮影 小倉清子)
タバン村を”赤の村”にしたバルマン・ブラ・マガール。(2006年6月 撮影 小倉清子)

1950年代半ばにネパール共産党のリーダーであるモハン・ビクラム・シンがタバンを訪れたことが、この村の運命を変えた。シンは当時タバン村のリーダー的存在だったバルマン・ブラ・マガールに農民組織を作るよう説得した。この農民組織の影響で、1958年に開かれたネパール初の総選挙では、タバン村の村人全員がネパール共産党の立候補者に投票をした。この村が"コミュニストの村"として知られるようになった最初の出来事である。

1960年には、当時の国王マヘンドラがクーデターを起こして、民主的に選ばれた政府を罷免した。その後、国王が実権を握るパンチャーヤト制度が導入され、あらゆる政党活動が禁止されると、タバン村はこの制度を支持するグループと、モハン・ビクラムが属する非合法となった共産党を支持するグループに二分されて対立するようになった。

村の有力者として村長にもなったバルマン・ブラは、タバン村で最初の学校を設立し、ここで教える教師としてモハン・ビクラムの支持者を外部から呼び寄せた。この教師たちが、この村に共産主義の思想を根付かせる役目を果たしたのである。

カリスマ性をもつ村のリーダーであるバルマン・ブラが率いるグループが、次第に、パンチャーヤト支持者であるもう一つのグループをしのぐようになった。パンチャーヤト支持派は官憲と組んでバルマン寄りの一派の弾圧を試みた。

そうした弾圧の結果、村長だったバルマン・ブラやカマン・ジャンクリは逮捕されて何年ものあいだ投獄された。
一方で、政党活動が禁じられたパンチャーヤト時代、タバン村はモハン・ビクラムのグループに属するコミュニストの活動家の格好のシェルターとなり、大勢の活動家がこの村に潜行した。
(つづく)


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