太平洋戦争中、魚雷を受け沈没した「白陽丸」を指す小林さん。兄はこの船に乗り、16歳で命を落とした(海と海員資料館にて 撮影・矢野宏)

太平洋戦争中、魚雷を受け沈没した「白陽丸」を指す小林さん。兄はこの船に乗り、16歳で命を落とした(海と海員資料館にて 撮影・矢野宏)

◆オホーツク海で戦死した兄は16歳だった

太平洋戦争中のオホーツク海で輸送船とともに沈んだ元軍属の小林量平さん(当時16歳)の戦死状況を70年ぶりに弟の弘さん (71)=神戸市西区=が探し当てた。神戸市の「戦没した船と海員の資料館」を訪ね、戦死年月日から輸送船の名前が判明。保管されていた乗組員の資料に兄 の名前を見つけた小林さんは「遺骨を見せられたような衝撃を受けました」と声を詰まらせた。(矢野 宏)

量平さんが亡くなったのは1944年10月25日。小林さんは当時3歳で、兄の記憶はない。その8カ月後の45年6月26日には両親が明石空襲で死 亡したため、小林さんは母方の実家に預けられ、小学校の入学を前に父方の祖父母のもとへ引き取られた。仏壇にはりりしい軍服姿の兄の遺影が飾ってあった。

「お前の兄さんは日本海で撃沈され、(戻ってきたのは)紙一枚やった」

戦後60年以上が過ぎ、神戸空襲の犠牲者の名前を刻んだ慰霊碑が建立されることになり、小林さんが戸籍を取り寄せたところ、兄の除籍謄本に添えられた一文を見つける。

「北太平洋方面において戦死 横須賀海軍人事部長 秋山勝三報告」

兄が乗っていた船が沈められたのは日本海ではなく、北太平洋だった。インターネットで兄が戦死した年月日、北太平洋などのキーワードを入れて検索す ると、「戦没船を記録する会」にたどり着いた。さらに、記録する会は全日本海員組合と共同で、神戸市中央区海岸通に「戦没した船と海員の資料館」を設立 し、戦争で犠牲になった海員と戦没した船の記録と資料を保存していることがわかった。

資料館の主任スタッフ、岡村世紀一さんによると、小林さんの兄が乗っていた船は、大阪商船(現在の商船三井)所属の輸送船「白陽丸」(5742トン)で、42年12月29日に完成した。翌年7月に海軍に徴用されている。

千島列島の北東に位置する占守島(しゅむしゅとう)から北海道・小樽に向けて航海中の44年10月25日午前7時45分ごろ、千島列島中部の知林古 丹島(ちりんこたんとう)北西沖において右舷に3発の魚雷を受け、航空ガソリンに引火したため、わずか2分足らずで沈没したという。

「占守島の海軍航空隊基地は冬場に閉鎖されるので、現地の部隊や要員、航空燃料は小樽と(青森県むつ市の)大湊に持ち帰ることになっていました。魚 雷は右舷機関室に1発、2番艙に2発命中しました。2番艙には航空ガソリンが満載されており、これに引火して大爆発を起こしています。船上とその周辺は火 の海と化すと思う間もなく、船は一瞬のうちに沈んだと伝えられています。脱出できなかった人、摂氏5度の海に投げ出された船員のほとんどが犠牲になってい ます」

乗船していた1470人のうち、助かったのは20人。戦没者のリストには、「船長 飯尾光次郎(52)愛媛」とともに、「機関員 小林量平(16)兵庫」と記されていた。

「やっとたどり着けたかと思うと、感極まりました」
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