Q. それでは、ロヒンギャたちの手助けは唯一、外国からの応援なのでしょうか?
A. ロヒンギャという名前が公の文書に表れたのは1950年代くらいからです。その頃、国際社会は、いわゆる「民族自決」という風潮が盛り上がっていました。その流れを汲んで、強硬な軍部が支配するミャンマー国内で、弾圧されている少数派の人権を守るために、国連や国際的な支援機関がロヒンギャの「民族」という面を強調して活動していくという、ボタンの掛け違いのような方法を推し進めたことが<「ロヒンギャ問題」の問題>が生まれた要因の一つです(この辺りも、専門家の検証が必要だと思われます)
国際社会は当時、第一に軍事政権に抑圧されてきた民主化勢力、次に実際に戦闘が続いていた少数民族問題に取り組んでいました。「ロヒンギャ問題」は優先順位が低かったのです。当時は軍事政権で国内の状況はよく分からなかったのです。

その国際社会の流れに乗ったロヒンギャの一部が民族性を主張するようになり、仏教徒ラカインと対立が生まれたのです。国際社会は、〈ロヒンギャ・ムスリム〉を〈ロヒンギャ〉とし、「民族としてのロヒンギャ」を作り出すことで軍政に人権保障の圧力をかけようとしたのです。(つづく)<【特別連載】ミャンマーのロヒンギャ問題>記事一覧

宇田有三(うだ・ゆうぞう) フリーランス・フォトジャーナリスト
1963年神戸市生まれ。1992年中米の紛争地エルサルバドルの取材を皮切りに取材活動を開始。東南アジアや中米諸国を中心に、軍事政権下の人びとの暮らし・先住民族・ 世界の貧困などの取材を続ける。http://www.uzo.net
著書・写真集に 『観光コースでないミャンマー(ビルマ)』
『Peoples in the Winds of Change ビルマ 変化に生きる人びと』など。

【関連記事】
<写真報告>選挙権剥奪されたロヒンギャの人々(写真9枚)
<写真報告>ミャンマーからバングラデシュに逃れたロヒンギャ難民

 

★新着記事