(※2003年初出のアーカイブ記事。情報等は当時のまま)

タリバン時代の裁判システム

地方裁判所での一般的な裁判の様子。被告、検察らの言い分をきいて裁判官が判決を下す。地方では、村落の「寄り合い」が実質の裁判機能を果たすこともある。タリバン時代、裁判ではイスラム法の概念がより強く意識された。(2002年3月撮影:玉本英子)

恐怖政治で思いのままに人びとを殺した、というイメージのつきまとうタリバンだが、タリバン政権時代も制度的には3審制(地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所による審理)が存在し、いわゆる通常の裁判が行なわれていた。

特殊だったのは、一般裁判所とは別にタリバン直属といわれる軍事裁判所、宗教裁判所があったことだ。そこではタリバンが独自に解釈したシャリア(イスラム法)による、ムチ打ち刑や手足切断などの刑がくだされていた。

ザルミーナの裁判記録を探すため、軍事裁判所を訪ねた。建物内は夜逃げの後のようにがらんとしていて何も残ってはいなかった。床には資料の山が散乱し、タリバン敗走時のあわただしさをうかがわせる。

「親愛なる信徒達の長から、タリバン政権の責任者としての勧告」と題されたパシュトゥー語による通達書。「タリバンは清く正しくあれ」という趣旨の文が書かれ、最後に最高指導者ムッラー・ムハマド・オマル師の署名がある。(2002年2月撮影:アジアプレス)

 

私は通訳と一緒に床に座り込んで資料をかたっ端から見ることにした。逮捕記録や拘束令状などが出てきたが、ザルミーナに関する資料を見つけることはできなかった。
通訳がその中から、最高指導者オマル師のサインがはいったタリバン兵への通達書を見つけた。

そこには「タリバンは清く正しくあれ」などとパシュトゥー語で書かれてあった。そもそもタリバンは、内戦で荒れ果てたアフガニスタンに、イスラムの理念に基づいた秩序ある社会をつくろうとする「世直し運動」が出発点であった。私は軍事裁判所で、当時タリバンに協力していた元裁判官の自宅を探しだした。彼は家に閉じこもり、自分のくだした判決で刑を受けた人から復讐されるのでは、と恐れながら暮らしていた。

彼は「私はタリバンではない。強制されただけだ」と繰り返し、自分自身のことは語ろうとはしない。しかしザルミーナ事件のことは知っていた。「夫殺し」という特異な事件は裁判官のあいだで話題になっていたのだという。

彼女の裁判は軍事裁判所ではなく、通常の裁判として審理が進められていたことがわかった。

私は最高裁判所庁舎に通い、ザルミーナの資料を探すことにした。しかしタリバン時代から裁判所に勤務していた者の多くは、過去の資料を探しまわる私を恐れていたようだ。「出て行け!」と裁判官に大声で怒鳴られ、追い出されたこともあった。

一方で協力者もあらわれた。地方裁判所の裁判官ザマン・サンガリ氏(48)はあの時代を忘れないためにと、私の資料探しを手伝ってくれた。彼はタリバン時代を含めて20年以上もカブールの刑事裁判にかかわってきた。

地下牢のような薄暗い資料室に通いつめ、私は、およそ1ヶ月間探しつづけてようやくザルミーナの裁判記録を見つけだした。資料は、裁判所の審理文書の書庫室に散らばった形で保管されていた。紙のファイルはほこりをかぶり、書類は薄茶色に変色していた。

添えられていた供述調書のなかに、青インクで押捺されたザルミーナの指紋を見つけた。私はなぜか、いとおしい気持ちでいっぱいになった。
何度も彼女の小さな指紋を指でなぞった。それは彼女が生きていた痕跡だった。
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