5. 革命40周年式典で壇上からオルテガ大統領に声援を送る、与党下部組織「サンディニスタ青年部」の若者たち。マナグア市で、2019年7月。

 

ニカラグア革命には、カトリック司祭や信徒が多数参加した。彼らは、抑圧と貧困に喘ぐスラムや農村で聖職者と住民が協働する「解放の神学」を実践した。革命に強く影響したこの運動をニカラグアに根付かせた一人、元神父のフェリックス・ヒメネスさんから革命の背景を聞いた。(文・写真 柴田大輔

<ニカラグア写真報告>裏切られた革命(1)民衆に怯える「革命の英雄」オルテガ

2. 元神父のフェリックス・ヒメネスさんは、ニカラグアで若者と活動した日々を「毎日が冒険のようだった」と振り返る。マナグア市、2021年11月。

◆抑圧の中で生まれた「解放の神学」の共同体

首都マナグア市郊外にあるヒメネスさんの自宅裏には、豊かに実をつけるアボカドの木やサトウキビ、トマトが栽培される。菜園の隅にある鶏小屋で卵を探すヒメネスさんは「自分たちで食べるものを自分で作るのはいいものだ」という。1980年代にニカラグアの女性と結婚して神職を離れ、家族と暮らしている。

スペイン出身のヒメネスさんは、1968年、23歳で神父としてニカラグアへ渡った。着任したのはマナグア市内のサン・パブロ・アポストル教区。ニカラグアで最初にできた解放の神学による「キリスト教基礎共同体」だ。

当時の中南米は軍事独裁政権の抑圧に苦しむ国が相次いで生まれた。教会は国家の暴力に無批判であり、貧しい人々に無関心だった。その反省から生まれたのが、のちに「解放の神学」と呼ばれるカトリックの神学運動。その実践の場となったのが、聖職者が農村やスラムに身を置き貧しい人々と協働した、信徒による小規模組織「キリスト教基礎共同体」だ。

3. 1970年に撮影されたサン・パブロ・アポストル教区で行われた大人向けの「識字学校」の様子。識字教育はその後、革命政府に引き継がれニカラグア全土に展開した。マナグア市、1970年。フェリックス・ヒメネスの著書「貧する人々のための貧者(Pobres por los pobres)」より転載。

◆独裁政権下で送る「絶望的」な暮らし

アポストル教区は1966年にできた。ヒメネスさんと同郷のホセ・デ・ラ・ハラ神父が「貧しい人が主体となる場所を作りたい」との思いで建設を願い出た。当時、そこには土地を失った農民や、洪水で家を亡くした避難民が集まりスラムを成していた。

1960年代のニカラグアは、綿花や肉牛の輸出が増加し、中米最高の経済成長率を記録していたが富は分配されず、貧困層が拡大した。この社会構造の中心にいたのが独裁者ソモサ一族だ。彼らは国内工業を独占し、全耕作地の5分の1を手にしただけでなく、好景気に乗じてさらに農地を拡張した。その過程で小規模農民が土地を奪われ都市部に流入。サンパブロ教区は、こうした貧困に喘ぐ人々の集落だった。

「雨が降れば足が埋まるほどぬかるみ、乾くと固まり土埃が舞う。そんな貧しい土地に、板やビニールを貼り合わせた家が立ち並んでいました」とヒメネスさんが振り返る。さらに、電気、水道だけでなく、何年たってもまともな道路や学校、医療施設すら作られなかった。「彼らは見捨てられていた。絶望的で屈辱的な生活を送っていました」と話す。

こうした周縁化された状況を前に、ハラ神父は、近隣国のパナマで実践される「神の家族」という取り組みを導入した。「キリスト教基礎共同体」の核になる住民組織だ。近所が一つのグループになり、定期的に集まり、身の回りの出来事や社会問題を聖書の記述をもとに話し合う。そこで出たアイディアを実行し、自らの手で良い社会を築こうとした。社会から阻害された人々が力を合わせ、主体的に社会参加する取り組みだ。

モデルになったのが、ブラジルの教育学者パウロ・フレイレによる「識字教育」だ。社会問題を教材に用いることで、識字学習を通じて参加者同士で問題を討論する。それにより識字能力だけでなく、各自が問題意識と社会を変える力をつけていく。「意識化」と呼ばれるこの過程が、独裁政権下のニカラグアで社会変革を求める革命運動と結びついた。識字教育は、1979年のソモサ政権打倒の革命以降、政府によって全国に展開され、革命を象徴する政策となった。

ハラ神父はアポストル教区で実践した「神の家族」を、当時に国内にできつつあった他の共同体にも伝道した。のちに革命政府の文化大臣に就任するエルネスト・カルデナル神父も、自身が組織した、芸術性の豊かさで著名なソレンティナメ共同体とハラ神父との出会いを著書で振り返っている。

4. 教区の若者たちと映る神父時代のヒメネスさん(正面右:黒服)。若者たちとともに、社会を良くしようと働いた。マナグア市で、撮影年不明。フェリックス・ヒメネス提供。

◆「見捨てられた土地」の若者が革命ゲリラに

ニカラグア社会から「見捨てられていた」アポストル教区の若者と協働するため、ヒメネスさんは「青年運動」という名称で彼らを組織し、活発な活動をはじめた。教会や病院など、必要なものを話し合って作っていった。

当初は恥ずかしがった若者が、堂々と意見を言えるようになり、歌や踊りでの自己表現を覚えた者もいた。ある少女は「(独裁政権下にあっても)意見を伝え、自分を自由に表現していいんだ」と嬉しそうに話したという。

自信をつけた若者らは、街での社会運動に参加するようになる。公共交通費の値上げに反対の声をあげ、政治囚解放を訴えるデモにも参加し「ソモサはもういらない!」と叫んだ。

「若者たちは自分や地域の問題を分析し、ソモサや資本主義に対する闘いの必要性を実感した」とヒメネスさんが話す。

こうして社会意識に「目覚めた」若者たちが、その後サンディニスタ民族解放戦線と結びつき、革命戦に参加した。その中には、志半ばで命を落としたものもいた。ヒメネスさんは当時を振り返りこう話す。

「若者たちとの日々は、私にとって毎日が冒険でした。私は彼らを忘れないし、彼らとの出会いの上に、今の人生があるのです」

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