高砂義勇隊――若者たちは戦地へ消えた
事件当時、15歳だったポホクは10年後見事な青年に成長した。時に、太平洋戦争の真っ最中、山岳戦での特異な能力に目をつけた日本軍は、台湾先住民を対象に高砂義勇隊の組織を企て、台湾全土で2000名が応募した。第1回高砂義勇隊はこの川中島からも出ていき、全員が元気に凱旋、村では盛大な祝勝会が開かれた。
高砂族の中でももっとも勇猛果敢な戦士として知られるセイダッカ、その頭目の長男として生まれたポホクは、さっそく第2回義勇隊の募集に応じ、採用される。このとき川中島からは3人の若者が戦地に赴いた。
この写真の3人である。

オビンたちの願いもむなしく、ポホクは二度と母や姉が帰りを待つ川中島へは帰ることはなかった。写真のうち生還したのは、中央の青年のみである。
彼の名はワリス・ピホ、日本名を米川信夫、戸籍上は高成佳である。生涯に3つの名を持つことになったこの高砂勇士は、急死に一生を得て帰りながら、戦後半世紀、日本政府から1銭の補償ももらわないまま、亡くなった。生前、何か日本人にいうことはありませんか、と問うと、「兵隊は負けていません。陛下が降伏したのです」とのみ語った。

義勇隊は7回に及んだ。成年男子の大半を失っていたこの棄民の里から、さらに元気な若者たちが次々に出征して行った。最終的には30数名が出征し、帰って来たのは10人に満たなかったという。あのまま戦争が続いたら男という男は根こそぎ持っていかれたであろう。
川中島の青々とした稲穂に秋風が渡る。新旧様々な家々が立ち並ぶ集落からは、外界の雑踏が嘘のように寂として物音ひとつ聞こえない。外来の異民族に翻弄され続けて来たセイダッカの民。その子孫たちは今も川中島に生きている。(続く)

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