襲撃で死亡した人民解放軍小隊指揮官。カリガンダキ川の水際に置かれた遺体には、マオイストの赤い党旗がかけられていた。

「人民戦争」で最大の犠牲を払うのはもっとも貧しい人々だ

◆ヘリコプターから空爆
ベニ襲撃は6000人を超える部隊による、これまでで最大規模の“奇襲”だった。しかし、これだけの人数が数日をかけて歩いてくるわけである。

事前に政府側に情報が伝わってもいいようなものだが、マオイストが襲撃の約2週間前から、郡庁所在地であるベニへの村人の行き来を厳しく禁じていたこともあり、襲撃の日時までは漏れなかったようだ。

これまでの大規模襲撃でも、“近い将来襲撃がありそうだ”とする情報が政府側に伝わっていたケースが多い。しかし、政府側がその情報を真剣にとらなかったり、あるいは、日時までは特定することができなかったため、ほとんどのケースで奇襲が成功している。

ベニ襲撃では、マオイストにとっては政府側に気づかれなかった往路よりも、帰路のほうが大きなリスクを伴った。タカム村を出て以来、24時間以上、不眠不休でいたために、ほとんどのマオイストが疲労の極限に達していたこともあるが、大勢の負傷者を運搬しなければならなかったことも大きなリスクの一つだった。このために、王室ネパール軍は帰路につくマオイストを、容易にヘリコプターから狙うことができたのである。

タカム村で会ったマオイストの“プラビン”によると、ベニ襲撃ではマオイスト側に422人の負傷者が出ている。彼らは負傷者のためにさまざまな準備をしてきた。襲撃の前線近くには臨時の“クリニック”が設置された。私が確認しただけでも、民家や役所、学校、路上など9箇所に設置されている。

マオイスト側に最も多くの被害が出た、王室ネパール軍兵舎に通じる、郡開発委員会前の通りに面した民家では、2階建ての家全体がクリニックとして使われた。引き上げる際、軽傷者は自分の足で歩き、重傷者は用意してきた竹製のストレッチャーに乗せて、あるいは“ドコ”と呼ばれる籠に背負われて運ばれた。強制的に連れてこられた民間人の“ボランティア”の多くが、負傷者運搬要員だったのである。

ミャグディ郡チムコラ村から襲撃の12日前に拘束され“ボランティア”として連れてこられた13人も、負傷者の運搬を手伝わされた。そのなかの一人が、帰路での体験を話した。
「負傷者を運ぶわれわれボランティアは、列の一番最後を歩いていた。負傷者は100人以上おり、歩く人たちの列は1キロ近い長さだった。バビヤチョール村で民家に入って少し休んだあと、21日正午ごろ、ダルバン・バザールに向けて出発した。

その後のことだった。軍のヘリコプターが飛んできて、私たちの近くに爆弾を落とした。この後、チムコラ村から来たわれわれ13人は全員逃げることに決め、ダルバン村に入ったところで、民家に水を飲みに入る振りをして逃げたんだ」

ヘリコプターからの空襲を避けるために、人民解放軍西師団の指揮官“パサン”率いる主要部隊は、本来のルートをはずれて回り道をしなかればならなかった。拉致された郡行政長官(CDO)や副警視(DSP)を含む警官ら約40人の捕虜も、この“パサン”のグループと一緒だった。

彼らはダルバン・バザールの手前でミャグディ川を渡り、山越えをしてバグルン郡の側に入り、ジャングルの中で何日か野宿したあと、再びミャグディ側に戻り、タカム村の先にある王室ドルパタン狩猟域に出て、彼らの“base area(本拠地)”であるルクム郡に戻っていった。このグループに同行した“従軍記者”マンリシ・ディタールは、マオイストの機関紙『ジャナデシュ』のなかで、帰路を行くあいだ、空爆により、拉致された警官の一人と負傷者を含む何人かが死亡したことを明らかにしている。
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