パレスチナ解放運動の象徴・アラファト議長━━。その死はパレスチナ問題の解決を願うすべての人々に大きな衝撃を与えている。現地はどのように反応しているのか。16年にわたりパレスチナの取材を続けてきた古居みずえのリポート。(編集部)

「イスラエルとアメリカはアラファトの存在が和平を邪魔するといっていた。アラファトが死んだ今、彼らは真剣に和平に取り組むのかみたい」(ガザ地区、運転手、47歳)

「アラファトは私たちの父親のような存在だった」(ガザ地区、主婦、51歳)
「アラファトは僕たちを守ることはできなかった。僕たちはアラファトが来てから、多くの代償を払った」(ガザ地区、大学生、19歳)

アラファト議長に対する人々の思いは様々だ。議長を尊敬し続ける人、期待をかけない人、しかしカリスマだったアラファト議長はもういない。どちらにせよ、40年近くパレスチナ解放闘争を率い、自分の生涯をかけてパレスチナのために闘ってきた人だ。その人を失って、これからどうなるかというのがほとんどの人たちの気持ちだろう。

私がアラファト議長を初めてみたのは今から10年前の1994年7月だ。議長が占領始まって以来、初めてパレスチナ帰還を果たしたときだ。アラファト議長はどこへいってもパレスチナ人たちの熱狂的な声援を受けていた。ちょうど抵抗運動(インティファーダ)が始まって6年目、出口の見えない闘いにみんな疲れていたときだった。突如として沸いて起こったようなイスラエルとの和平合意にパレスチナ人たちは一縷の望みをかけた。

一方、パレスチナ人の中にはオスロ合意を「裏切り」と感じた人たちもいた。ヨルダン川西岸コバ村に住むウンム・オマルはその1人だった。当時、彼女は息子の1人をイスラエルの刑務所にとらわれていて、17年間、息子の帰りをひたすら待っていた。しかし、オスロ合意が成立した後も息子は帰ってこなかった。
「PLOの指導者はみな裏切りものだ。アラファトは息子たちの犠牲を忘れて和平を喜べという。この和平は失敗だ。パレスチナ国家建設の夢は失われた」
とウンム・オマルは怒りをあらわにした。

7年にわたる和平プロセスは、パレスチナの現実を変えるものではなく、逆に人々の生活を分断し、苦しめた。また自治政府内には汚職が広がり、権力志向のアラファト議長自身への失望感が強まった。
イスラエルに対しても、自治政府に対しても人々の不満が募るなかで、2000年9月、第二次インティファーダが起こった。
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