歪んでいるのは?
しかし、である。これをもって「中国はとんでもない国だ」「こんなことではオリンピック開催も危ぶまれる」と、中国のいわば「歪み」を盛んに言い立てる日本国内の論調に対しては、ふたつの点で違和感を覚える。

ひとつめの違和感は、「え?まさかいま気づいたわけじゃないよね」。
反日デモの背後に一党独裁体制の「歪み」があるとしても、「歪み」そのものは今に始まったことではない。そこから生じる暴力性は、何よりもまず中国国内において、民主活動家、チベットやウイグルで独立を掲げる少数民族などに対し、非情なかたちで発動され続けてきた。

かの国の抱え込む巨大な矛盾を認識しつつ、それでも、東アジアの平和のために(あるいは、露骨な場合には、「十数億の市場」で儲けそびれないために)、日本はつきあっていくことにしてきたのであれば、リスクの覚悟と、外交上のビジョンや戦略は不可欠だったはず。したがって、改めて問題にすべきなのは、「江沢民政権以降、反日教育が体制維持の道具とされてきた」ことではなく、そのような事態が90年代を通じて隣国で進行していたことに対する、日本政府と社会の側の認識の欠落、適切な対応を模索する姿勢の不在である。

ふたつめの違和感は、「ところで、私たちの国はそんなにまともなんだろうか?」。
中国における反日教育や報道統制に体制の「歪み」が反映されている、と指摘するのはいい。しかし、隣国という鏡に映し出された日本の像の「歪み」は、本当に鏡の「歪み」だけに帰することができるものなのだろうか?

今回の反日デモの直接の引き金は、主に、「新しい歴史教科書」検定合格のニュースが報道されたこと、日本の国連常任理事国入り問題にからんで小泉首相の靖国神社参拝が改めて問題にされたことだ。この二点に対する批判は、反日教育を受けた若い世代だけでなく、中国の一般市民に広く共有されている。どんな批判も暴力を正当化する理由とはなり得ないが、暴力行為が一部であったことをもって、批判そのものを無視する口実とすることもまた、あってはならないと思う。
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