鏡像と実像
中国で信じられている日本の姿、つまり「鏡像」の歪みを、コミュニケーションによって是正できる部分もある。たとえば、中国の若い人のなかには、日本じゅうの学校で「新しい歴史教科書」が使われていると思っている人が非常に多いようだ。教科書検定の是非の問題以前に、事実関係の誤認が広範に見られる。

あの教科書は少なくとも今のところごく一部の学校で採用されているだけだし、私自身の中高時代に関しては、植民地支配と侵略戦争の歴史を熱心に教えてくれる教師に恵まれたと思うと、ある若い友人に伝えたところ、やや自嘲気味に、
「私たちの場合、党が教えると決めたことは、どこでどんな学校に通おうと、徹底して教え込まれるの。あなたたちみたいに、学校によって違うとか、先生によって違うとかいう状態は、なかなか想像しづらいんだよね」
と話していた。

今回、反日デモに参加した大学生に、友人を通じてインタビューを申し込んでいたが、残念ながら断られてしまった。テレビの映像を見るかぎり、「愛国無罪」などと、己を国家に同一化させて恍惚と叫ぶ姿をちっともいいとは思わないけれども、適切な機会さえあれば、彼らとも上のような議論ができないとも限らない。

しかし、より深刻で、重要なのは、日本の「実像」の問題、日本国内で日本人自身が議論しなければならない問題である。
はじめのほうで書いたように、五十代以上の中国人はしばしば、「日本政府と日本人民は別」という言い方をよくする。やや込み入った話になるので省略するが、これは彼らの世代が受けた毛沢東イデオロギーに基づく教育の影響が大きいと思われる。今回も、
「小泉首相は靖国神社を参拝しているけど、日本の人民が同じ考えだとは思っていないよ」
と、タクシーの運転手から善意を込めて言われたことがあった。こういうとき、私は何と答えるべきか迷ってしまう。日本は曲りなりにも民主主義国家であり、かの首相が一時は圧倒的な支持率を誇っていたことを、この人に伝えるべきかどうか、と。つまり、彼らの側で持っている美しき誤解によって、「日本人民」はまだ、不当に高い点数をもらっていることに気づかされるのだ。

かつて近隣諸国を侵略しておきながら、国際裁判でA級戦犯とされた人びとが祀られている神社に現首相が参拝しても、そのことによって国民の支持を失うことがない日本という国の「実像」とは、一体、どういうものだと考えればいいのだろうか。

4月23日、日中首脳会談が実現したが、一方でその前日には、「みんなで靖国神社に参拝する国会議員の会」の議員たちが大挙して靖国神社を訪れた。この状況では、私の国は軍国主義の過去について口先だけでなく反省し、そのことを一貫した態度で示し続けてきたと、中国で出会う人びとに胸をはって説明できそうもない。

今回の反日デモで暴れまわった中国の若者たちは、ときに「モンスター」「フランケンシュタイン」などとたとえられた。そのたとえには反対しない。しかし一方で、私たち自身の国のほうが、知らないあいだに「モンスター」と化していないかどうか。こちらの問題のほうが、私にとっては切実である。
(了)

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