現在イラク北部とクルド自治区を取材中の玉本が、イラク国内の日常の息吹を日誌と写真で伝える集中連載

私はいま、ある人に注目している。ケマル・フアド・キルクーキ氏(50)だ。その名の通り、キルクーク出身のこの政治家が、今後、キルクークの行方を左右することになるからだ。クルド民主党(KDP)中央委員であり、同党キルクーク支部代表を努める同氏は、フセイン政権下、クルド人の権利を求めて戦った闘志として名高い。イラクを追われたあと、フランス、ドイツなど亡命暮らしを続けた。

フセイン政権崩壊の日、ケマル氏がクルド部隊とともに真っ先にやってきたのが、彼が生まれたキルクーク郊外のトゥグス村だ。先日、同氏とともに村を訪れた。
緑の草原にのびる石油パイプライン。その横をヒツジの群れがゆく。かつて秘密警察、ムハバラットの接待所として使われていた同氏の家は、幼い頃にイラク軍によって追いだされて以来、当時のままの姿を残していた。クルドの大地に眠る石油を奪うため、フセイン政権以前からクルド人の追放がおこなわれていたと、彼はいう。

「ロバにわずかな家財道具を背負わせて、丘をいくつも越えた。父はずっと厳しい顔のままだった」ケマル氏は、心に焼きついたその日の記憶を、ゆっくりと私に話してくれた。
「アラブ人は知人になれても、真の友人にはなれない」彼にとっての「イラク戦争」は、この村を追われたときからすでに始まっていた。

その後、フセイン政権はキルクークの民族構成を変えるべくクルド人を強制的に追い払い、サマワやバスラなど南部の都市からシーア派アラブ人を移住させる「アラブ化政策」を確立し、力づくで推し進めた。
「移住してきたアラブ人を補償金を払い、帰還してもらう」ケマル氏は強い姿勢を崩さず、クルド人の多くはこれを支持している。石油という資源へのこだわりだけではなく、自分たちの土地を追われてきたクルド人の、それぞれの記憶があるのだ。

だが、移住後、キルクークで生まれ育ったアラブ人のなかには、この帰還事業を「クルド人による強制移住」と受けとめる者も少なくない。キルクークでは、アラブ人イスラム過激勢力による米軍や警官襲撃に加え、クルド人を狙った爆弾事件も多発している。今後、この街がイラク情勢に大きな影響を与えるのは間違いない。
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村を追われた日の様子を語るクルド民主党、ケマ
ル・フアド・キルクーキ氏。緑の大地の下には大
量の石油が眠る。
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イラク最大級の油井をかかえるキルクーク。クル
ディスタンが分断にさらされてきたのは、その大
地があまりに豊かであったことも理由のひとつ。

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