しかし当時、日本はイギリスと日英同盟を結んでいた。イギリスがドイツと戦争を始めた以上、日本もドイツとは敵対関係になる。そのため、日本の軍人がこれ以上ドイツに滞在することは許されない事態となった。

1914年8月半ば、ベルリンの日本大使館付武官からの指示で、永田は同僚数人とともに急遽、鉄道でドイツからオランダへと脱出する。そしてイギリス、ロシアを経て、同年11月に日本に帰り着いた。

その頃、日本は同盟国イギリスからの参戦の求めに応じて、1914年8月23日にはドイツに対して宣戦布告をしていた。9月には、ドイツが植民地の一種である租借地としていた中国山東省の膠州湾〔こうしゅうわん〕一帯を攻略するために、海軍艦隊と陸軍部隊を派兵し、ドイツ軍と交戦状態に入った。
大隈重信を首相とする日本政府は、表向きは日英同盟の大義を掲げながらも、その背後で、中国におけるドイツの権益を奪い、勢力を拡大しようと企てていた。

膠州湾一帯の中心都市である青島〔チンタオ〕を、日本軍は11月7日に占領した。永田鉄山がヨーロッパから帰国し、東京に着いたのはその2日後であった。 ~つづく~
(文中敬称略)

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