2000年、パレスチナでは第二次抵抗運動が起こり、抵抗が激しかったジェニン難民キャンプ。2002年4月にはイスラエル軍によって徹底的に破壊され、住民60人以上が死亡、500軒にも及ぶ家屋が破壊された。私は2007年の春から夏にかけて、ヨルダン川西岸ジェニン難民キャンプにある自由劇場にいる若者たちに密着し、演劇を通して抵抗を伝える若者たちを取材した。

芝居のワンシーン(2007年 ヨルダン川西岸ジェニン難民キャンプ)

芝居のワンシーン(2007年 ヨルダン川西岸ジェニン難民キャンプ)

 

投石ではなく演劇で~自由劇場の若者たち
2007年、ヨルダン川西岸ジェニン難民キャンプの自由劇場で、演劇を勉強するカマール(18歳)とカイス(16歳)に出会った。2002年4月、ジェニン難民キャンプはイスラエル軍によって徹底的に破壊され、住民60人以上が死亡し500軒にも及ぶ家屋が破壊された。その頃、カマールもカイスも、ほかの難民キャンプの子どもたちのようにイスラエルのジープが来ると、石を投げる普通の少年だった。

2006年、そんな少年たちを集めて、演劇の指導を始めたのが、イスラエル人とパレスチナ人の両親を持つ、ジュリア―ノだった。ジュリアーノは侵攻後のジェニン難民キャンプを訪れ、惨状をまのあたりにした。そして地元の人たちやNGOの協力を得て、文化による抵抗、カルチャー・インティファーダを掲げ、「自由劇場」を立ち上げたのだ。

参加の呼びかけに、カマールとカイスも応じた。それまで仲間たちと通りで石を投げて過ごしていた毎日がその時から変わった。演劇の稽古をするようになり、劇場からは少年たちの声が響き渡った。

 

「To Be or Not to Be(成すべきか、成さざるべきか)」

芝居「To Be or Not to Be」のワンシーン(2007年 ヨルダン川西岸ジェニン難民キャンプ)

芝居「To Be or Not to Be」のワンシーン(2007年 ヨルダン川西岸ジェニン難民キャンプ)

 

カマールとカイスは「To Be or Not to Be(成すべきか、成さざるべきか)」という演劇に打ち込んでいた。「To Be or Not to Be」はキャンプに暮らす若者たちの、窒息しそうな日常を描いた芝居だった。

イスラエル占領下にあるヨルダン川西岸の人々は、自由に移動することもままならない。同じ西岸の町や村に行くにも、イスラエル軍の検問所を通らねばならず、追い返されたり、ときには逮捕されたりする。西岸から地中海へは、イスラエル領内を通って来るまで1時間半ほどの距離だが、2000年の第2次インティファーダ以来、イスラエルがパレスチナ自治区との境界を封鎖したため、海に行くこともできなくなった。そういう日常を描いたものだった。

貧困、父親の入院、それでも...

お菓子屋で働くカマール(2007年 ヨルダン川西岸ジェニン市)

お菓子屋で働くカマール(2007年 ヨルダン川西岸ジェニン市)

 

自由劇場の初めての舞台を1カ月後に控えたある日、カマールは暗い顔をしていた。母親と言い争ったという。演劇ではお金は一銭も入ってこない。母親は体の不自由な父親のためにも、長男の彼が一日も早く仕事に就いてほしいと思っている。

父親は2002年の侵攻時、イスラエル軍兵士たちに家から引きずり出され、そのまま連行された。3カ月後に家に戻ったときには、体はほとんど動かず、口もきけない状態だった。少し快復した後も思うように動かない体で、ごみ収集の仕事をしていた。

カマールは何としても演劇を続けたかった。母親と話し合い、「最初の芝居が終わるまで待ってほしい。うまくいかなければ、演劇はあきらめて、以前働いていた菓子工場で働く」と約束して、練習を続けた。

初めて完成させた芝居の指導はナビールという演劇青年が行った。演劇する若者の中にはうまく溶け込めず、若者同士で対立する場面もあった。いろいろな問題をはらみながらも地元の人たちを集め、初めての芝居は成功に終わった。

しかしカマールには試練が続いていた。最初の芝居が盛況で芝居を辞めずにすむと思っていたのもつかの間、父親が入院した。家の床で足を滑らせて転倒し、腰の骨にヒビが入ったのだ。翌日からカマールは菓子工場で働き始めた。父親はしばらくして退院したが、寝たきりの状態が続いた。家族の生活を支えるため、カマールは演劇を続けるわけにはいかなかった。この頃、友人のカイスも家の家計を助けるためにパン屋で働いていた。

自由劇場を引っ張ってきたジュリアーノはその後、本格的に演劇指導をし、「アニマル・ファーム」「フラッグメント・オブ・パレスチナ」「アリス・イン・ワンダーランド」と次々と完成させ、2008年ついに海外公演までするようになった。演劇を教える学校もでき、すべてがうまくいっているように見えた。

演劇指導コーチ殺害される~自由劇場の危機
しかし2011年4月、ジュリアーノが打ち合わせを終わり家に帰る途中、突然何者かの凶弾に倒れた。車に一緒にいたのはまだ幼い長男と彼の世話をしている女性だった。ジュリア―ノは未だに何者の手によって殺されたのかわからない。

自由劇場の子どもたち、演劇の生徒、スタッフ、みんな悲しみに陥った。劇場の中心人物としてだけでなく、イスラエル人とパレスチナ人の両親を持つジュリアーノはイスラエルとパレスチナの架け橋となれる人だった。ジュリアーノを失い、カマールとカイスは途方にくれた。それだけでなく、彼らは疑われ、警察によって尋問までされた。自由劇場の存続も危ぶまれた。カマールたちにとっては一番つらい時期だった。

 

暴力ではなく演劇で!

ジュリアーノを真ん中に自由劇場の仲間たち(2007年 ヨルダン川西岸ジェニン難民キャンプ)

ジュリアーノを真ん中に自由劇場の仲間たち(2007年 ヨルダン川西岸ジェニン難民キャンプ)

2012年暮れ、5年ぶりに自由劇場を訪ねた。 舞台を見ていると、どこかで聞いた声が響いてくる。なんとカマールではないか。劇場から離れていていると聞いていたカマールは、主演の男優として演じていた。やんちゃで腕白なイメージしかなかったカイスは、演劇の学校を卒業し、新しい芝居のディレクターとなっていた。2人は演劇を続けていたのだ。

今度の芝居のタイトルは「盗まれた夢」で、カマールは芝居の中では詩人としてジュリアーノの人生を演じていた。カイスとカマールは「ジュリアーノは自分たちのために死んだ。暴力でなく文化でイスラエルの占領と闘い、変えようとした。自分たちはそれを受け継ぐ」と自分たちの、そしてジュリアーノの夢を叶えるために今日も芝居に切磋琢磨している。
(終わり)