ただ、「主体思想派」の活動家たちは、誰も彼も言うことが似ていたので、強い綱領のあるしっかりした組織があるのだろうなという印象だった。付き合いが深まるにつれ、日本の朝鮮総連へのメッセンジャーを頼まれたり、平壌に行って欲しいと打診されたりすることもあった。

「主体思想派」は、当初は北朝鮮の指導を受けていない自生的な左翼組織だった。それがどんどん膨張し一万人を超える動員力を持つ「民族民主革命党」 (民革党)という巨大地下党に発展していく。これに平壌が目をつけないはずがない。創設リーダーだった金永煥(キム・ヨンファン)氏は、金日成主席に呼ば れて91年に工作船で密かに北朝鮮に入った。

ところが、金氏は、金日成と会ったことでショックを受ける。北朝鮮が理想の国などではなく首領独裁の国ではないかと考えるようになったのだ。さらに、少しずつ増え始めていた脱北者の証言などに接し、金氏は、北朝鮮民衆の悲惨な現実を想像するようになった。

97年、金氏は転向して「民革党」解党を決意。この時袂を分かったのが、冒頭に書いた統合進歩党の李石基(イ・ソクキ)議員である。彼は「民革党」の解党に抵抗して再建に動き、後に検挙される。

韓国世論は統合民主党に極めて厳しい目を向けている。第一与党で、一部共闘関係を持ってきた民主党や他の革新政党、政治家、左派学者、メディアからも「時代錯誤のトンキホーテ」「幼稚な勇士遊び」「戦争ごっこ」などと厳しく非難が浴びせられている。

代表的な革新系紙のハンギョレ新聞は昨年8月30日の社説で、李議員らを次のように辛辣に批判した。
「もう、自らを『進歩』と呼ぶのを止めなければならない。むしろ自らの処身と行動によって、守旧保守勢力に付け入る隙を与え進歩陣営に凄まじい害悪を及ぼしていることを知らなければならない」。

その後、金永煥氏は、北朝鮮にこそ革命が必要だと考え、北朝鮮民主化運動にずっと取り組んでいる。彼の元で、かつての「主体思想派」の後輩たちが数多く活動するようになった。

組織のメッセンジャーとして筆者に平壌行きを依頼した友人は教員になった。北朝鮮の反米主義は正しいと言うのが口癖で、今でも革新系の組合活動に熱心だが、すっかり「主体思想」派からは距離を取っている。

「世襲後継する体制がまともとは思えないから」。
彼は、北朝鮮から心が離れた理由をこう語った。

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