一方で、ビルマ軍政はこれまで、中国に対する特別な意図を持っているのか、ビルマ最北の複数の村に暮らすチベット人(民族)の存在を認めていません。
多くの地域でもそうですが、そもそも「民族」という概念は外側から押し付けられた考え方といってもいいでしょう。
ミャンマー国内の民族の区分けは、英国の植民地支配の都合上、後から入って定着してきました。日本に暮らすミャンマー人は、民族の違いを次のように説明しています。

《「日本に来て関西の人とか、青森の人とか、それも一つの民族なんじゃないのかなって思っているんですよね。鹿児島の人だってそうだし、みんな言葉が少し違うじゃないですか。私から見たらみんな違う民族に見えるんです。でも、日本だと沖縄まで日本人なんですよね」》(『アジアウェーブ』2002年10月号)

つまり、ビルマの人の感覚では、「東北人」や「関西人」も民族としてアリなんですね。ちょっとした言葉や生活習慣の違いで他民族となってしまう。そういうことがビルマではありうるのです。実際、ビルマ全土をまわった私の感覚からすると、135という数字は多すぎます。

日本でも幕末や明治維新時、長州人、薩摩人、土州人(土佐人)という言い方がありました。ジョン万次郎が米国から帰国した際の調書は「土州人漂流記」となっています。

現在の世界の枠組みが出来る今から100年ほど前、だいたい第一次世界大戦の頃、世界は帝国主義から民族主義に移ろうとしていました。

そこで、「〇〇人」「〇〇民族」というのは、時代やその時々の政治状況によって生まれ、その表現が変わったものなのです。

ミャンマーでは軍事政権の時代、政府は〈これほど多くの民族が存在しているビルマでは、それぞれの民族が勝手なことを主張してしまうと国家がバラバラになってしまう恐れがある。そのため、国家の分裂を防ぐために軍の力が必要なのだ〉というような説明がされてきました。軍事政権の立場としては、民族の区分けが多ければ多いほど都合がよいのです。つまり政治的に作られた枠組みです。

問題は、外国のメディアも、この135民族という数字をなんの検証もなしに引用することによって、多民族国家であるビルマ像を、結果としてビルマ軍政の主張を補強してきたのです。(つづく)
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