◆カシミール問題の始まりと人権問題

カシミール問題の始まりは、1947年、インド・パキスタン両国の独立のときカシミールの領有をめぐって争った、第一次印パ戦争に起因する。この戦争は国連の仲介により停戦し、印パのどちらに帰属するか。国連の監視下による住民投票で決めるとされた。しかし、印パ両国がお互いに不利な結果がでることを嫌い、現在に至っても行われていない。東パキスタン(現バングラデシュ)独立をめぐる第3次印パ戦争後の1972年には、両国は戦後処理のためシムラ協定を結び「カシミール問題は2国間で協議すべき」と定めた。インドはこれを根拠に国連の介入を拒み続けている。

1950年発効のインド憲法では、ジャンムー・カシミール州とされた印側カシミールに防衛・通信・外交以外の自治権を与える憲法第370条が施行。これは、カシミールの人びとのインド帰属への歓心を買うためだった。

印側カシミールは、住民の7割がイスラーム教徒で、インド国内で唯一のイスラーム教徒が多数派の州だった。憲法第370条によって人びとは自分たちはインドの中でも特別だと思っていたし、パキスタンと隣接していたため、常に分離独立の機運が漂っていた。そのため、影響力を行使するために、インド政府は戦後、たびたび州内政治に干渉し、自分たちに従順な政権を作ろうとしていた。

そうした長年の干渉に嫌気がさし、1987年の州議会選挙では、地元の地域政党が連帯し、中央政府寄りの政党に対抗しようとした。しかし、選挙活動は弾圧され、選挙結果は自分たちが投票した実感と開きがあったため、票の改ざんが疑われた。

選挙という民主的な手段での意思表示を否定された人びとは絶望し、若者を中心にパキスタンに越境して軍事訓練を受け、インドからの分離独立を目指して闘うようになった。

多民族国家であるインドでは、分離独立は国家解体を招きかねないので、その対応は徹底弾圧である。現地では軍隊特権法(AFSPA)という治安法があり、治安部隊による令状なき逮捕、現場での拷問、処刑、家屋の占拠といった人権侵害が長年にわたって横行している。同法により罪を犯しても免罪されるからである。

地元の人権団体・ジャンムー・カシミール市民社会連合(JKCCS)によると、90年代初頭から現在までの、治安部隊による連行、拉致の後に行方不明になった人びとが、約8000人に達するという。

また、一部のカシミール土着のヒンドゥー教徒(カシミーリー・パンディット)が標的となって殺されたことで恐怖感が広がり、約12万人のカシミーリー・パンディットが、ジャンムーやデリーに逃げていった。

最初の武装闘争は1994年ごろを境に下火となったが、軍隊特権法を背景とした人権侵害は続いており、反インド感情は燻ぶったままだった。

<カシミール・印パ停戦の陰で>(2) 知られていない、メディアへの弾圧

 

 

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