
イスラエルの侵攻から1年と8カ月が経つ。パレスチナのガザ地区住民の5万3千人が犠牲になり、9割が家を失った。ガザは今や見る影もなく、家々は瓦礫の山となった。イスラエルはトランプ大統領の中東訪問が終わるや否や、5月18日、ガザ地区への軍事作戦拡大の一環として、大規模攻撃を開始した。夫と息子3人、娘1人の5人でガザ地区に暮らすサマル(仮名37 歳)という女性からネットを通じて状況を聞いた。(古居みずえ)
[アーカイブ]<パレスチナ>ガザ写真報告(1)父と弟が殺されたカナアーン少年は漁師に 写真4枚(古居みずえ)
◆ガザには死しかありません
ガザ南部の難民キャンプに暮らすサマルは、私がガザで取材をしていた時の通訳の親戚の女性で、2008年に会ったことがある。彼女は結婚したばかりで、子どもはまだ赤ん坊だった。
サマルは専業主婦で、料理がうまく、明るく人なつっこい性格で、いつもにこやかに笑っていた。昼食に鶏料理をふるまってくれたことを覚えている。 サマルはガザの惨状を少しでも世界の人たちにわかってもらいたいと、私に日記を託してくれた。イスラエルの大規模侵攻が始まった数日の様子を日記にこう書き綴っている。
・5月18日(日)
午前6時、(イスラエル軍の)F-16戦闘機とヘリコプターが、10回以上連続して空襲を始め、この辺りの数カ所で地響きを立てるほどの被害をもたらしました。
今日は何もする気が起こりません。天候は悪く、この悲惨な状況に苛立ち、悲しみ、憂鬱を感じています。希望は全くありません。毎日同じことを繰り返すのに本当にうんざりしています。
朝食はレンズ豆です。息子たちはこの料理に飽き飽きしていて、特にパンがないとなおさらです。市場には品物が全くありません。生活は暗いものになってしまいました。昨夜は血なまぐさい夜でした。避難民のテントが攻撃され、5歳の子供とその母親を含む多くの人が死亡、父親も負傷しました。私たちはもう耐えられません。
・5月19日(月)
F-16とヘリコプターの飛行音と爆撃音で、突然目が覚めました。30分も続いています。この狂気は一体何なのでしょうか? 私たちは平和で静かに暮らしたいのです。殺戮と破壊はもうたくさんです。ガザには死しかありません。しかし、私は母親としての仕事をしなければなりません。朝食の主食となるレンズ豆を調理しました。

◆23年の爆撃後から始まったテント生活
サマルが暮らすガザ南部は2023年10月に攻撃を受けた。アルジャジーラによれば、近所の親戚の家族は、80歳の叔父、息子、息子の妻、孫、そして避難民の人たちが犠牲になった。生き残ったのは生後2週間の赤ちゃんとその母親だけだった。その日、およそ100人が殺された。瓦礫の下にいる人たちを救出するのに1週間もかかった。
11月下旬、イスラエル軍はガザ南部で軍事作戦を展開し、東部地域、次に市街地から避難するように人々に命令し、およそ2週間後、サマルたちは避難を強いられた。彼女たちは12月25日に家を出て、海岸近くでテント生活をすることになった。
「私は涙を流しながら家を出ました。私たちは木とナイロンでできたテントの部屋に住むことになりました。そこは狭くて窮屈で、かろうじて眠ることが出来ました。トイレに行くには遠く、厳しい寒さのために落ち込み、悲しくなりました。子どもたちは厳しい寒さに苦しみ、なかでも最も苦しんだのは娘でした」
こうサマルは話す。
娘は寒さのせいで何度も胃腸炎を患った。日が沈むとすぐに寒くなり、暖を取るために火を起した。その頃はまだ火で料理をしたり、パンを焼いたりできていた。真夜中に雨が降ったとき、水が屋根に浸み込んできたので、夫とサマルは起きて子どもたちを水から遠ざけ、鍋を持って水を受けた。夜明けまでその状態が続いた。

◆破壊されたキャンプに戻る
サマルたちが帰宅できたのは、それから5カ月後、イスラエル軍がキャンプ地から撤退した後の5月中旬だった。いたるところで破壊が起こり、家に繋がる道は瓦礫で塞がれていた。それでも家はまだ残っていたが、窓やドアがひとつも残っていなかった。部屋を掃除するだけで10日間かかった。当時人々は戻ることをまだ恐れていたが、家が破壊された人を除いて、やがて戻り始めた。地域では小さな屋台のような簡単な商業活動も始まった。
トランプが大統領に就任する直前の2025年1月19日、イスラエルとハマスの間で停戦が始まった。検問所も解放され、食料の配給も始まった。人々は喜びのあまり、外に繰り出し、踊り出す人たちもいた。
27日にはガザの南北を隔てていた検問所がなくなり、南部に避難していた多くの北部の人々は自分たちの家に向かった。しかしながら北部にある自分たちの家はすでに壊されていたのだ。北部に向かった人々は住む家がなく、しかたなくまた南部に帰ってテント生活をした。
ガザ停戦合意の第一段階42日間の最終日はラマダン(断食月)が始まった3月1日だった。停戦中の断食月で、人々は不安を抱えながらも喜びを感じていた。しかしイスラエルはハマスに停戦延長を受け入れるように圧力をかけるため、翌日3月2日からガザ地区への食料、電気、燃料、医薬品すべての物質の搬入を停止した。その結果、食料や医薬品が不足し、人道危機が深刻化している。
◆ラマダン最中に破れた停戦
そして3月18日の早朝、イスラエルによる攻撃が一斉に始まった。イスラエルにより一方的に停戦が終わったのだ。この時の様子をサマルは次のように伝えてきた。
「朝の2時ごろ、突然爆撃が始まりました。私たちはラマダン(断食月)中の真夜中だったので、パニックになったのです。停戦になり、私たちは通常の生活のほんの一部を取り戻そうとしていました。でも寝ている間の爆撃に驚いて、恐怖に震えながら目を覚ましました。もう避難、大量虐殺という悪夢が再び起こることに耐えられません」
イスラエルの報道官はトランプ大統領の中東訪問が終われば、ガザの作戦を拡大すると述べた。そして軍事作戦拡大が始まった。ガザ保健当局によると5月15日からの死者は400人を超え、負傷者は1000人以上という。
さらに、イスラエルはガザ住民大半の移動を計画しているという。完全封鎖の状態の2カ月にわたる食糧危機で、栄養失調で亡くなっている子どもたちもいる。餓死寸前の人間にさらに耐えられないほどの爆撃が浴びせられれば、大半の人間は移動したくなくても、生きるために移動せざるを得ないだろう。これを民族浄化と言わなくて何というのだろう。
「ガザには、遺族となった母親や、殉教した子どもたち、手足を切断された子どもたちの姿があります。避難生活や絶え間ない爆撃の光景など、幾重もの悲劇があります。悲しみと死は至る所にあります。しかし、私たちはあらゆる困難を乗り越え、この厳しい人生を生き抜きます」
気丈なサマルはこう語った。
【解説】パレスチナ問題とは
1948年にユダヤ人がイスラエル建国宣言したことで、第1次中東戦争が起こり、パレスチナにそれまで住んでいた多くの人が難民となった。この時からパレスチナ問題が発生した。第3次中東戦争以来、イスラエルは東エルサレム、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区を軍事占領。
1994年からガザ地区は自治区となったが、2006年、パレスチナ自治評議会選挙でイスラム組織ハマスが勝利し、全権を握った。選挙でハマスを選んだことで、イスラエルは集団懲罰としてガザを封鎖した。ガザでは人の出入りもできず、燃料や食料、医薬品などの搬入は制限された。以来17年間も封鎖は続き、4度にわたるイスラエルの侵攻と、封鎖による経済の疲弊などで若者は希望を失い、今回のイスラム組織ハマスのイスラエル越境攻撃につながったともみられている。
※写真はサマルの親族がガザ南部で撮影したものである。