「十五円五十銭」という謎の言葉は、外見上日本人と区別できない朝鮮人を見つけ出すための識別法だった。1919年の三・一独立運動の衝撃から、朝鮮総督府は「武断政治」を「文化政治」に改め、朝鮮人の抵抗心を抑え込もうとした。しかしその一方で、〈不逞鮮人〉追及の手を緩めることはなかった。(劉永昇

◆朝鮮人識別法

関東大震災が起きた1923年当時、日本には約8万人の朝鮮人が在住していた。第一次大戦時、戦時好況に湧いた産業界は、一方で深刻な労働者不足に直面していた。そこで着目されたのが、安価な労働力である朝鮮人であった。

1919年朝鮮全土に湧き起こった大規模な独立運動である「三・一独立運動」時には一時的に渡航制限(1922には廃止)がかけられたが、「内地」日本に渡る朝鮮人の数は年々増えていた。

しかし、治安当局は取締りの手を緩めたわけではなかった。大戦後の不況に陥ると、失業した朝鮮人が労働運動に身を投じて社会主義者と結びつくのではないか――、そうしたおそれから〈不逞鮮人〉への警戒はよりいっそう強められていった。

必要なのは「識別」することだった。日本人か朝鮮人かの識別、そして〈不逞〉朝鮮人か〈善良〉な朝鮮人かを官憲は区別する必要があった。

「身長内地人ト差異ナキモ、姿勢直シク腰ノ屈ムモノ及ビ猫背少ナシ」

「顔貌亦(また)内地人ト異ナラズモ、毛髪軟ニシテ且(かつ)少ナク髪ハ下向ニ生ズルモノ多シ。顔面ニ毛少ナク俗ニノッペリ顔多シ」

「発言ニ抑揚頓挫アリ流暢ナリ」

「発音ニ濁音ガギグゲゴハ最モ困難トス」

「発音ノ際ラ行ラリルレロハ判明セズ。例エバ「ラ」ハ「ナ」、「リ」ハ「イ」」

これは日韓併合から3年後の1913年、内務省警保局が配布した文書「朝鮮人識別資料ニ関スル件」の一部である。日本人と朝鮮人を識別する方法が列挙されているが、両者の外見の差異は微妙で識別が困難なことがうかがわれる。重要なのは後半に挙げられた発音上の特徴である。

◆「ジュウゴエンゴジッセン」の謎解き

小説『十五円五十銭』は、列車内での兵士による点検のくだり以後、小説的な表現を離れて、作家自身の憤慨がそのまま記されていくが、その中で「ジュウゴエンゴジッセン」の謎解きに触れている。

朝鮮人であるかないかを調べるためには、必ず濁音のある言葉を言わせたそうだ。例えば座布団、ザブトンをサフトンと発音して、その場で自警団のために惨殺された鮮人もある。私が汽車の中で目撃した出来事。「ジュウゴエンゴジッセン」と云う濁音の多い言葉を、若(も)し満足に発音できなかったとしたら、恐らくあの労働者もどんな目に遭わされたかも知れない。

朝鮮語の特徴である、語頭の最初の音が濁らないという規則を逆手に取ったのが、この「十五円五十銭」という識別法だった。軍人がこの識別法を利用していることに、壺井は権力の意図を嗅ぎ取っている。

十五円五十銭。一人の兵士の口を借りて云わせたこの奇異なる言葉の裏に、我々は支配階級の死物狂いの姿を見逃す訳には行かない。

◆「武断政治」から「文化政治」へ

内務省の「朝鮮人識別法」は、相手が「日本人」か、「朝鮮人」かを見分けるためのものだ。外見上の識別が困難な両国人の混在が、日本国内の治安維持の妨げとなることを危惧してのことである。朝鮮人は、内地においては異邦人であることをくっきりと印付けられねばならなかった。

留学生や労働者は内偵を付けられて監視され、ときに拘引され拷問を受けた。併合により韓国民を日本国籍に組み入れた後、日本政府は「内鮮一体」のスローガンを掲げて融和を説いたが、それは上辺の言葉に過ぎなかった。

一方、「外地」朝鮮を統治する朝鮮総督府が取り組まねばならなかったのは、〈不逞〉と〈善良〉の識別だった。併合10年を前に勃発した三・一独立運動は総督府の統治方針を転換させた。兵力を背景にした「武断政治」から、より融和的な「文化政治」に改め、朝鮮人の抵抗心を慰撫しようと考えたのである。

「三・一独立運動」のレリーフ(ソウル・タプコル公園。筆者撮影)

◆「善導」主義の逆輸入

総督府の政務総監・水野錬太郎はこの改革の任にあたり、朝鮮人に対する警察の接遇態度を和らげるよう改めさせた。「善導」主義と言われるこのやり方について、当時の警察官僚・田中武雄は、民族の反抗心は到底抑えきれるものではなく「朝鮮人を本にした、最大限朝鮮人が満足する」ように統治しなければならなかったと後年回顧している。

日本人官憲の態度は、三・一独立運動を境に「呵罵叱責を事としていた」ものから「温言和気」に変化したと『東亜日報』の社説も書いている。

この「善導」主義は内地に逆輸入された。朝鮮人留学生が多い西神田署の加々尾橙太郎所長は、総督府政務総監・水野錬太郎との会合の中で、「鮮人を愛撫し充分に彼等に優しい親しみを有する方針」を唱え(『時事新報』1919年11月19日)、「朝鮮人相談部」を署内に新設している。

1921年になると特別高等警察課内に「内鮮高等係」が設けられ、朝鮮人の就業・就学、住居、医療、結婚などの相談窓口となった。初代係長の薦田定保は、「常習的不逞鮮人に強烈なる取締と圧迫を加え」、そうでない朝鮮人には「善導を与える」方針を述べている(『朝鮮警察新聞』1921年9月10日)。

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