
イスラエルのガザ侵攻から1年と8か月が経つ。パレスチナのガザ地区住民のおよそ5万4千人が犠牲になり、9割が家を失った。ガザは今や見る影もなく、家々は瓦礫の山となった。イスラエルは5月18日からガザ地区への大規模攻撃を開始し、ネタニヤフ首相は「ガザ全域の制圧」を表明した。イスラエル軍は2か月以内にガザの75%を制圧するとし、残りの25%の場所におよそ200万人のガザの住民を閉じ込めようとしている。ガザに住む女子学生サバラさんから届いた現地からの報告を紹介する。(古居みずえ)
古居みずえがガザ女性に現状を聞く(1) 「目覚めは戦闘機とヘリの飛行音と空爆」「悲しみと死は至る所にあります」
◆ガザ女子学生日記のサバラさん
昨年の11月から「ガザ女子学生日記」を書いて日本で発信しているサバラさん(仮名23歳)から、インターネットで連絡があった。
「私の地域も退去命令が出ました。どこへ行けばいいかわかりません」
ガザ南部に住んできたサバラさんは、筆者がガザ取材を手伝ってくれた通訳の遠い親戚で、彼女が幼いころ会ったことがある。2024年11月から日記を書き続け、私に半年間、送り続けてくれた。
サバラさんは大学で英文学を学ぶ快活な女性で、英語教育の学位を取得するために新しいプログラムに意欲的に挑戦していた。2023年10月7日に起こったことで、サバラさんの人生は一変した。彼女の夢は悪夢に変わった。何度か危険な目にも遭った。

◆家からの脱出
2024年1月23日、イスラエル軍がガザ南部のハンユニスに侵攻した。絶え間ない砲撃と銃弾の音が聞こえ、サバラさんは恐ろしい夜を過ごした。夜明けとともに外を見ると、軍が戦車とブルドーザーで入ってきて、容赦なく近隣の若者たちを逮捕していた。兵士たちは信じられないほど乱暴に若者たちを殴り、何人かは息が絶えていた。兵士たちはサバラさんたちが家にいることを知ると銃を向け、発砲してきた。
サバラさんの父親は地面に伏せるように言って家族を守った。幸いに発砲は止み、「すぐに逃げろ!」という父親の合図とともに銃弾が飛び交う中、家を脱出した。
頭上にはドローンが飛び、「この通りから立ち去れ」と電子音声で命令してきた。サバラさんたちははぐれないように手をつないで歩いた。戦車が砲弾を発射して、近くで爆発した。煙が通りに充満し、視界はほとんどなかった。一瞬サバラさんは家族を失ったかと思ったという。
極度の疲労にもかかわらず、歩き続けた。長い距離で、歩くことは果てしなく続くように思えた。どんなに苦しくとも歩き続けなければならならず、やっと脱出できた。しかしサバラさんは、魂の一部と心の一部を家に残してきた思いだという。
そして3日間テント生活をした後、サバラさんの父親が、住むためのラファに小さな家を確保し、イスラエル軍の攻撃が終わることを待った。数カ月が経っても爆撃は続いていたが、サバラさんはまだ家に帰るという希望を持ち続けていた。しかしイスラエルはラファへの侵攻を始めた。

◆家が爆撃受け、がれきの下から救出される
2024年5月6日午前1時、イスラエル軍はサバラさんの住んでいた家を爆撃した。家族とサバラさんは瓦礫の下になった。奇跡的に助かり、瓦礫の下から引きずり出された。サバラさんは恐怖とショックのために何が起こっているのか、一瞬にしてどのように変わったのかもわからなかった。気が付いたら血まみれになっていた。
「その夜のことは私の記憶の中に永遠に刻み込まれるでしょう。私は死の淵から、炎の中から、完全なショック状態の中、自分がどこにいるのかもわからないまま、生還した夜でした」
怪我をしたサバラさんは、夜が遅くて病院にも行けず、親戚の家に移動し、そこで応急処置を受けた。怪我はひどく、背中、手、足に深い傷があった。夜明けに家族とともにラファを離れ、ハンユニスに向かい、小さなテントを張って避難することにした。
「まさに悪夢でした。トイレも生活必需品もなく、傷の痛みで私の体は苦しめられました。その日は私の人生で最もつらい日であり、その苦しみは今でも忘れません」
とサバラさんは日記に書いていた。

◆10カ月ぶりに家へ帰ってみると
サバラさんたちが家に帰ったのはそれから半年後の11月だった。テントで過ごす厳しい冬に耐えられなくなり、破壊された家の跡地に戻ったのだ。家に入ったとき、その光景に耐えられなかったとサハラさんは語った。
「かつては暖かさと愛に満ちていた場所がまさに悪夢と化していました。まるで私の美しい思い出が破壊されたかのようでした」
家の隅々までイスラエル軍の残虐行為が残っていた。壁には銃弾の穴があき、床には兵士が残した汚物が溢れていた。