◆ガザのどこにも安全はない
11月も終わるころ、サバラさんがよく勉強に使うカフェにいるときのことだった。突然、ミサイルの爆発音がして、すべてを揺さぶった。カフェの隣が標的だった。破片や石が四方八方に飛び散り、人々の叫び声と泣き声でいっぱいになった。カフェにいた人たちは飛んできた破片に当たり、血を流していた。
「まるで、死がすぐそばを通りすぎたのに、今回も死ななかったようだった」
とサバラさんは後に語った。
標的はパレスチナ赤新月社本部と通行人でにぎわう市場だった。日用品を求める人々、子ども、女性、男性で混雑していたが、一瞬にして賑やかな光景が恐ろしい悪夢に変わった。
家族は爆撃の知らせを聞いたとき、サバラさんが標的の場所にいて殺されたと信じていた。サバラさんの父親、母親、そして兄が息を切らして駆け付けた。母親はサバラさんを見つけると走ってきて強く抱きしめ、泣きながら「神様ありがとう。サバラが生きていた」と言った。

◆食料配給停止と強制避難
イスラエルは今年3月初めからガザを完全封鎖して、食料、燃料、医薬品すべての物質の搬入を停止させた。5月18日には大規模な地上戦を始めた。しばらく音信がなかったサバラさんと、連絡が取れた。攻撃はいつも以上に大規模で、地域ごとに強制避難させられているそうだ。サバラさんの連絡にも、状況の緊迫さを感じるようになった。
5月13日(火)
「今日は恐怖を感じます。イスラエル軍が突然ハンユニスに侵入し、多くのものを破壊し、爆撃し、そして退去命令を発表しました。私たちのために祈ってください」
5月20日(火)
「とても怖いです。状況は深刻で、飢餓が広がり、ガザでは小麦粉が手に入らないのではないかと不安です。食糧不足で毎日、空腹で意識を失うほどです」
5月25日(日)
「昨日、家のすぐそばが爆撃され、私の頭や体の上に破片や石が飛んできました」
5月26日(月)
「私の怪我は軽いですが、とても疲れています」
6月3日(火)
「私たちの地域に退去命令が出ました。どこへ行けばいいのかわかりません。テントもありません。焼けるような痛みで泣いています。どうしたらいいのかわかりません」
6月5日(木)
そしてサバラさんは再び家を出なければならなくなった。
「バックと荷物を持って家を出ました。私の魂の一部を家に残していきます」

◆私たちの心にはまだ小さな光がさしています
ガザ地区で起こっていることは爆撃と破壊だけではない。イスラエル当局は、3月から3カ月にわたってガザの住民に対する支援物資の配布を停止させている。世界食糧計画(WFP)によれば、ガザの子ども7万人以上が深刻な栄養失調に直面しているという。
5月26日から国連ではなく、イスラエルとアメリカが支援する「ガザ人道財団」(GHF)が、援助物資を配給している。ガザ保健当局によれば、配給所付近で支援物資を取りに来たガザ住民に軍が連日攻撃し、6月15日までに死者数は累計300人になったとしている。なぜ食料を求めているだけなのに撃たれなければならないのか。国連のアントニオ・グテーレス事務総長は独立した調査と加害者の責任追及を求めている。
サバラさんが昨年末に日記に書いた言葉が心に残る。
「私には、夢があり、目標があり、生き続けて行く人生があります。この世界の中で、意味のあることを成し遂げ、結果を残したいと思います。この全ての暗闇の中で、私の心にある唯一の目標として前進させたいことは、人々に寄り添い、彼らを支え彼らの声を世界に届けることです。 この戦闘で多くのものが奪われました。たとえ全てのことが不可能に思えても挑戦し続けたいと思っています。ここガザでは、こうした包囲と破壊にも関わらず、私たちの心には、まだ小さな光が射しています」
【解説】パレスチナ問題とは
1948年にユダヤ人がイスラエル建国宣言したことで、第1次中東戦争が起こり、パレスチナにそれまで住んでいた多くの人が難民となった。この時からパレスチナ問題が発生した。第3次中東戦争以来、イスラエルは東エルサレム、ガザ地区、ヨルダン川西岸地区を軍事占領。
1994年からガザ地区は自治区となったが、2006年、パレスチナ自治評議会選挙でイスラム組織ハマスが勝利し、全権を握った。選挙でハマスを選んだことで、イスラエルは集団懲罰としてガザを封鎖した。ガザでは人の出入りもできず、燃料や食料、医薬品などの搬入は制限された。以来17年間も封鎖は続き、4度にわたるイスラエルの侵攻と、封鎖による経済の疲弊などで若者は希望を失い、今回のイスラム組織ハマスのイスラエル越境攻撃につながったともみられている。