◆ヤズディ教徒の元米軍通訳

息子を抱くイラク人通訳のダハム(左)。このあとアメリカへ移住した(2016年イラク・シャリアにて撮影・玉本英子)



これまで数々の現場を取材してきた。たくさんの通訳と一緒に仕事をしてきたが、米軍で通訳の経験をしたイラク人たちは優秀だった。 

イラク戦争後、多数のイラクの若者たちが駐留米軍の通訳をした。2年間、私のために働いてくれた少数宗教ヤズディ教徒の男性、ダハム・ラロ(30)も元米軍通訳だった。米兵に同行する通訳は命がけだった。武装組織の攻撃に巻き込まれるだけでなく、家を特定され殺害される者もいた。米軍からの月給は日本円換算で10万円ほどで、死亡しても補償はわずか。それでも仕事を得る機会が少なかったヤズディ青年たちには、志願する者が多かった。

英語がほとんどできなかったダハムは、辞書を何度も読み返して単語を暗記、衛星テレビの英語ドラマを見て発音を練習した。米軍採用後は、部隊に同行してイラク警察との情報交換などの通訳をした。任務中は顔を特定されないよう、黒い目だし帽で顔を隠した。次々と負傷していく仲間の通訳たち。それでも彼は1年間働き続けた。貯めたお金で、北西部シンジャル郊外に小さな雑貨店を開き、結婚し、子どもが生まれた。

3年前の8月、過激派組織「イスラム国」(IS)は、シンジャル一帯のヤズディ住民を襲撃した。クルド自治政府から派遣されていた治安部隊は町を守ることなく撤収、住民は置き去りにされた。ダハムは妻と幼子とともに近くの山へ逃げた。水も食べ物もない岩山に1週間潜んだ。村が襲撃された際、たくさんの友人が殺され、親戚の女性たちが何人もISに拉致された。

ダハムがさらに許せなかったのは、襲撃時に近隣のイスラム教徒住民の一部がISに協力し、ヤズディ村の情報を教えたことだった。もうイスラム教徒は信頼できない、と彼は思った。

昨年9月、イラク軍のモスル奪還戦の直前にIS地域の一部でイスラム教徒住民が逃げ出した。私とダハムは避難民のキャンプに向かった。逃れてきたばかりの女性は「ISは住民に横暴にふるまい、過酷な毎日だった」と顔をゆがませていた。

ダハムの目には涙が浮かんでいた。彼のそんな姿を見たのは初めてだった。「イスラム教徒も、ひどい目に遭っていたんだ」

それから数週間後、彼は家族とともにアメリカへ移住した。米軍通訳を1年以上務めたイラク人は移住申請がしやすく、元通訳たちには移住希望者があいついでいる。ダハムは、ネブラスカにある動物の飼料工場で働き始めた。

7月、ISから奪還したモスルで、イラク・アバディ首相は「ISは終わった」と宣言した。だがヤズディ教徒は政府の言葉を信用していない。「いつまた襲撃されるか分からない」と誰もが言う。

アメリカに移住するヤズディ教徒は、新生活に豊かな暮らしを託してイラクを離れるのではない。虐殺や拉致の悲劇からとにかく逃れたいという切実な思いだ。生まれ育った故郷を去る選択をするヤズディ教徒はいまも増え続けている。【玉本英子・アジアプレス】
(※本稿は毎日新聞大阪版の連載「漆黒を照らす」2017年8月8日付記事に加筆修正したものです)

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