8月12日、ムザッファラバードへ行こう!の掛け声のもと、行進は始まった。だが、行進が北の町ウリを過ぎたあたりで事態は変わった。デモ隊は治安部隊から銃撃され、分離独立派のリーダーの一人であるシェイク・アジズが銃弾を受けて死んだのだ。

そのニュースが伝わるや、全カシミールは抗議のデモに入った。このデモはかつてないものだった。警察署が襲われ、準軍隊(CRPF)の陣地が破壊された。こんなことは、見たことがなかったし、陣地を破壊するなどありえないことだった。衝突が繰り返され、五日間で子供を含む二一人が亡くなり、数百人が怪我をした。

私はこの十年カシミールの独立運動を見てきたが、デモに参加するのは活動家か鬱憤のたまった若者だけだった。それ以前は市民も参加していたが、弾圧の結果少なってしまっていた。しかし、今は違う。私の友人は「これは革命だ。

90年代の闘争は銃を持ったミリタントが中心だったが、今は市民が主役だ」という。一般市民が自ら参加しているのだ。8月18日、22日の集会は手に緑の旗と黒い旗を持った数十万人規模の人びとが集まった。この集会には政府は規制をかけなかったので、平和裏に行われた。
確かに問題の発端はアマルナート寺院の土地の問題だった。だがその後、ジャムーとの対立となり、いまはインドからの独立運動へと変わっていったのである。

宿の主人は最近のいきさつについて愉快そうに語ってくれる。「道が封鎖されて巡礼者たち(八月一六日までが巡礼期間だった)の食糧が無くなった。俺たちは炊き出しをして、巡礼者に配った。その後、今度は俺たちの食糧が無くなってきた。すると、田舎の農民たちがトラックに米を積んで持ってきて、貧しい人たちに配っていたよ」という。

地元の人権活動家に連絡をすると、ジャーナリストでさえ動くのが難しいという。「今朝も二人の地元のニュース局のカメラマンがCRPFに殴られた。チャンネルも配信停止させられた」という。事実を和らげて伝えるインドのテレビ局に比べ、正確に伝える地元のニュース局は政府にとって嫌な存在なのだ。また、それで人びとを刺激するのを恐れている。

夕方五時ごろ「近くで外に出た親子が撃たれたらしい」と宿の主人が言う。地名を聞くと半径1kmのごく近い場所だ。銃声は聞こえなかったが、同じような情報が他からも入ってきた。
それによると子供のほうが様子を見るために、外に出た。CRPFが銃撃をしたところ、父親も助けようと出てきた。そして父親も撃たれた。父親が死亡し、子は重傷だという。警察の発表では、彼らが警察署を放火しようとしたので発砲したということだった。しかし、その地区に警察署は無かった。

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