金正日に「異変発生」後、平壌も統制が格段に厳しくなった。(2008年12月後半平壌市大聖(デソン)区域 リ・ソンヒ撮影)

金正日に「異変発生」後、平壌も統制が格段に厳しくなった。(2008年12月後半平壌市大聖(デソン)区域 リ・ソンヒ撮影)

 

拡散する金正日重病説 北の民衆はこう受け取った 1 石丸次郎
北朝鮮では二〇〇八年の建国六〇周年に向け、前年から全国で行事が重ねられ、労働新聞などの官営メディアも「今年を歴史的転換の年とする」と宣伝してきた。
「歴史的転換」というスローガンからは、米国との間で核問題に決着をつけ、テロ支援国指定解除を勝ち取って関係改善を果たし、経済再建のテコにしようという目論見が窺われた。

そこで、北朝鮮政権は建国六〇周記念式典を〇八年最大のイベントと位置付け、金正日による閲兵式(軍事バレード)も準備されていたのだった。
しかし、その式典に参席するはずの金正日総書記の姿は見えなかった。
当然のことながら北朝鮮内部には衝撃が走った。

これまで、金正日の健康問題や家族関係についての情報は徹底して秘密に付されてきた。顔面麻痺や歩行障害があるらしいということは朝鮮の中でも囁かれていたものの、噂話やアングラ情報の域を出ることはなかった。
だが、建国六〇周年記念のような重要な一号行事(注1)を欠席したことによって、唯一の指導者の健康が相当悪いということを、北朝鮮の全国民の前に公式発表したも同然のこととなったのである。

その後、内外で流布する「金正日異変」説を必死になって打ち消そうとするかのように、北朝鮮政府は、金正日が各地を視察する様子を撮ったとされる写真を世界に向けて立て続けに配信した。
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