数多い朝鮮の行政区域の中でも「共産主義の理想村」との呼び名も高かった文徳郡龍林。ボロボロになった農民を助けようという老婆の勇気に、その場に集まった人々のうちの老齢の党員たちが口を揃えて言った。

「ここのまま帰るって言うんなら、われわれ農民が直接上の者に申訴しますぞ!」
この騒ぎを聞きつけて農場管理委員会の事務所から飛び出してきた人間と、慌てて呼ばれて来た里の保安員(警官)は、無理矢理人波を掻き分けて通り道を作った。中央党の検閲グルパ員が乗った車は、騒ぎを鼻で笑うように「ブルン」という音だけを残し行ってしまった。
かくして農民たちは申訴を行った。

農民たちの申訴は握りつぶされてしまうケースが多いのだが、この申訴によって検閲グルパ員たちはもちろん、農場の幹部たちも逮捕されるという大事件に発展した。
平安南道の党組織の者たちが、この申訴を利用して政治的ライバルを追い落とす作業に乗り出したからだった。権力の内部の足の引っ張り合いに利用されたのである。

金正日将軍様は、平安南道の党組織からこの件についての告発の報告を受けた。告発の内容は「一〇大原則(注3)に違反した」とか、「個別幹部の崇拝行為に加担した」などというものになっていた。
告発された幹部たちの中には、将軍様自身が大事にしてきた接見者(注4)も労働英雄も、最高人民会議の代議員もいたが、将軍様は処罰を下すことを拒否することができなかった。

再調査を命じて上がってきた報告書が、彼らを助け出そうにもどうすることもできない悪質な内容となっており、救う道が完全に塞がれてしまったからだった。

政敵が現れるのを未然に防ぐために、将軍様自身が考案した仕掛けに、大事にしてきた忠誠心の厚い幹部たちが引っかかってしまったのだ。
救うことが困難だとなると、もう「見せしめ」の儀式をするしかなくなる。

将軍様は公開処刑の執行を批准する文書にサインをしただけでなく、その公開裁判の現場に、各地の農村経営部門の職員と秘書、農場管理委員長や里党秘書、全国の郡党責任秘書と人民委員長を根こそぎ呼び集めさせたのであった。冒頭に登場した黄課長は、その「見せしめ」の儀式に集められた幹部だったのである。

一方上層部のそんな複雑な事情を知らぬ民草(たみくさ)の間では、暮らしが良くなる気配が全く見えないために不満はさらに募るばかりだ。というわけで、
「地主がいた時ときもこんなに酷くなかった」「倭政(注5)の時もこんなに酷くなかった」
という例の年寄りたちの抗議の言葉が広まり、今では、どこに行っても聞かれるようになってしまったのである。

※ 熾烈な権力闘争の過程でライバルを抹殺するために「不正腐敗行為」や「反革命行為」、「南朝鮮に通じた」などの理由で罠にかけることが横行し、九〇年代後半に大粛清劇が展開され、その見直しをするという口実でまた粛清劇が今日まで展開されている。詳しくは、既報記事「私は政治犯収容所に10年いた」を参照のこと。

資料提供 リム・グノ
二〇〇八年春
(整理 チェ・ジニ)
注1 工場や農場などで、指導者と祖国に忠誠心厚く懸命に働いた労働者や幹部たちは、「英雄」として表彰される。芸術分野や運動分野にも「英雄」の表彰がある。
注2 非社会主義的現象を検閲する取締りグループのこと。
注3 既報記事「最新報告 金正日「異変発生」後の北朝鮮(4)-4」を参照のこと。
注4 金日成、金正日と直接会う機会を得た人のこと。接見者は金正日の許可なしに処罰できない。
注5 日本の植民地支配のこと。

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